介護人メイルの、悔悟、改悟、開悟、戒護。
介護を超えて、悔悟のままに、再び「クリント・イーストウッド」のごとく-1。
メイルは、ひょんなことから古くて大きな家に独りで暮らすハメになったせいか、父親のことをやたら思い出している。
というより、メイルは、現在のご近所の人々が自分のことを、父親を見ていた実家の近所の人々のような目で見ているのでは? と自問自答し、苦笑している。
そのせいで、あのころ、父親が何を考え何をしていたのか?と思い浮かべてもいる。
突然、母親が救急車で運ばれ、それまで50年以上オシドリ夫婦であった父親はつがうことができなくなり、古くなった実家で否応なしに独り暮らしになったとき…。
メイルは、危篤!と宣告されてしまった母親のそばに救急病院に入り浸りで、正直、父親のことは後回しだった。
それでも、一応、父親の食事のことだけは気に留めたものの後のことはほとんど放ったらかしだった。
実際、父親も母親のことばかり気を病んでいて、自分の要求などは何もしなかった。
それが、母親の介護度5という自分たちでは何一つ介護できない介護生活が始まって、父親にもほぼフルタイムで訪問介護士をメイルはつけた後は、完全無視になっていた。
メイルは、好んでそうしたわけではなかった。
そうせざるしかない理由ができたからだった。
最初は、嫁姑との確執から母親とは極めてギコチない関係だった兄嫁が、父親を面倒看てくれるということになった。
兄の持ち家はかなり広く、2人の息子たちもそれぞれに一家を構えていて、スペースに余裕があったうえ、いわゆる長男でもあった。
しかし、父親はたった一日で実家に戻ってきた。
兄嫁は、父親が曾孫の娘を可愛がらないと言い訳したが、耳が遠くなっていた父親にとっておしゃまな曾孫娘はかなりタフな相手だったに違いない。
それ以上に、慣れ親しんだ実家の方が住み心地がよかったのかも知れない。
以来、40代や50代の女性介護士の方々が、とっかえひっかえ尋ねてきての上げ膳据え膳は、メイルの父親にとってミニ・ハーレム気分になったことは間違いない。
案の定、無愛想なはずの父親のそんな女性介護士たちからの評判も、「いい方で、お世話しやすくて助かります」と上々だった。
今考えると、親身ではなくウワベだけの接し方しかしない息子どもより、赤の他人の彼女たちの方がよっぽど新鮮で気分がよかったことだけは理解できる。
そんな父親のことを思い出しつつ、自分の現状を見つめていると、メイルはすぐに映画「Gran Torino(グラン・トリノ)」のクリント・イーストウッドが、脳裏に浮かんでくる。
このクリント・イーストウッドを語るには、今までになく、そのセッティングを説明せざるを得ない。
そして、メイルの父親との共通点を挙げておかざるを得ない。
クリント・イーストウッドには、2人の息子がいる。
メイルの父親も同じ。
クリント・イーストウッドは、朝鮮戦争に従軍し、随意的に不随意的に人を殺し、そのトラウマを背負っている。
メイルの父親も同じ。ただし、戦争は支那事変。
クリント・イーストウッドは、フォードの工場で勤続50年。そして、その自慢は自分でも一部を作った1972年製グラン・トリノ、コブラ・ジェット。
メイルの父親は、国家公務員として金属30年。そして、その自慢は内閣総理大臣からの感謝状。
クリント・イーストウッドの住んでいるところの環境は、ミネソタ州の片田舎の町。なぜか周りには、ベトナム戦争終結直後アメリカに逃れたモン族がいっぱい。
ちなみに、ここではラオスのモン族(Hmong)。
メイルの父親は、東京の下町。なぜか周りには大東亜戦争後リッチになった三国人がいっぱい。
クリント・イーストウッドの妻は、信心深いクリスチャン。
メイルの母親も同じ。ただし、仏教徒。
もっとも、アメリカ人精神剥き出しの口うるさいクリント・イーストウッドに対し、メイルの父親は日本人らしく全くの寡黙だったが…。
それと、クリント・イーストウッドは最後までヘビー・スモーカーだったが、メイルの父親は健康に悪いとわかってすぐに禁煙していた。
その意味では、どちらかというと、クリント・イーストウッドは、メイルにソックリかも。
さて、映画は、冒頭の妻の葬式から、意味深だった。
それまであれこれ言い訳をして疎遠にしていた2人の息子と嫁、そして孫たちが型通りの儀礼で妻の葬式に集まったこと自体に、クリント・イーストウッドはいちいちとキレまくる。
妻の遺体と遺影を前にして、不謹慎極まりなく思いやりのカケラも見せない息子たち、その孫たちの態度に、苦虫を噛みつぶした表情を見せる。
とりわけ、孫娘がへそ出しルックに鼻ピアスとへそピアスには、ドーベルマンのように唸る。
そして、一番大きな孫息子が「Spectacles,testicles,wallet and watch(目ん玉、キンタマ、財布に時計)」と十字架を切って、爆笑した瞬間には、思わず飛びかかりそうになる。
そんな父親の様子を見て、息子は息子で、「オヤジをどうする?」、「なら、兄さんが引き取れよ」と言い合い、クリント・イーストウッドはそれを見て、ブチ切れかかる。
さらに、神父の追悼の祈りの最中に、メールを始めた孫娘に「Jesus」と呟く。
それはその後の家での集会で、「飽きた。こんなところ、早く帰りたい」と言っていた孫娘が、親にうながされ「手伝おうか? オジイチャン」と言った瞬間、「No.You probably just painted your nails(いいよ。爪にマニキュア塗ったばかりだろ!)」と、直接言うことに繋がる。
そして、集会を抜け出し犬の散歩をし、ガレージで孫娘に再び遭って、決定的になる。
未成年のほんのガキのくせにタバコを吸っていた孫娘が、あわてて、「Wow.Grandpa,when did you get the vinntage car(わぅ、オジイチャン、いつこんなビンテージカー買ったの)?」とゴマカす。
すると、「1972」と答えながら、その吸殻を足で踏み消す。
ビビった孫娘は続ける。
「I never knew you had a cool old car(こんなカッコいい古い車を持っていたなんて知らなかったわ)」
「Yeah.Well, it's been here since before you were born(イヤァ、その、オマエが生まれる前からここにあるよ)」
「So...what are you ganna do with it when you, like,die(だから、仮に死んだらこの車どうするの)?」
「........」
「What about that super-cool retro couch you have in the den()? Because I'm going to state next year...and it would look really good in my room, and I don't have any furniture at all(あのむさくるしい書斎の超クールなレトロの長椅子でもいいわ。なぜって、来年には大学に行くつもりだし、あれなら私の部屋にピッタリだと思うの。それにワタシまだ家具何も持ってないし)」
途端、顔をそむけ、ツバをして、立ち去る気持ちがよくわかって、メイルは切ない。
だから、メイルは死んでも葬式が好きじゃない。
というより、メイルは、現在のご近所の人々が自分のことを、父親を見ていた実家の近所の人々のような目で見ているのでは? と自問自答し、苦笑している。
そのせいで、あのころ、父親が何を考え何をしていたのか?と思い浮かべてもいる。
突然、母親が救急車で運ばれ、それまで50年以上オシドリ夫婦であった父親はつがうことができなくなり、古くなった実家で否応なしに独り暮らしになったとき…。
メイルは、危篤!と宣告されてしまった母親のそばに救急病院に入り浸りで、正直、父親のことは後回しだった。
それでも、一応、父親の食事のことだけは気に留めたものの後のことはほとんど放ったらかしだった。
実際、父親も母親のことばかり気を病んでいて、自分の要求などは何もしなかった。
それが、母親の介護度5という自分たちでは何一つ介護できない介護生活が始まって、父親にもほぼフルタイムで訪問介護士をメイルはつけた後は、完全無視になっていた。
メイルは、好んでそうしたわけではなかった。
そうせざるしかない理由ができたからだった。
最初は、嫁姑との確執から母親とは極めてギコチない関係だった兄嫁が、父親を面倒看てくれるということになった。
兄の持ち家はかなり広く、2人の息子たちもそれぞれに一家を構えていて、スペースに余裕があったうえ、いわゆる長男でもあった。
しかし、父親はたった一日で実家に戻ってきた。
兄嫁は、父親が曾孫の娘を可愛がらないと言い訳したが、耳が遠くなっていた父親にとっておしゃまな曾孫娘はかなりタフな相手だったに違いない。
それ以上に、慣れ親しんだ実家の方が住み心地がよかったのかも知れない。
以来、40代や50代の女性介護士の方々が、とっかえひっかえ尋ねてきての上げ膳据え膳は、メイルの父親にとってミニ・ハーレム気分になったことは間違いない。
案の定、無愛想なはずの父親のそんな女性介護士たちからの評判も、「いい方で、お世話しやすくて助かります」と上々だった。
今考えると、親身ではなくウワベだけの接し方しかしない息子どもより、赤の他人の彼女たちの方がよっぽど新鮮で気分がよかったことだけは理解できる。
そんな父親のことを思い出しつつ、自分の現状を見つめていると、メイルはすぐに映画「Gran Torino(グラン・トリノ)」のクリント・イーストウッドが、脳裏に浮かんでくる。
このクリント・イーストウッドを語るには、今までになく、そのセッティングを説明せざるを得ない。
そして、メイルの父親との共通点を挙げておかざるを得ない。
クリント・イーストウッドには、2人の息子がいる。
メイルの父親も同じ。
クリント・イーストウッドは、朝鮮戦争に従軍し、随意的に不随意的に人を殺し、そのトラウマを背負っている。
メイルの父親も同じ。ただし、戦争は支那事変。
クリント・イーストウッドは、フォードの工場で勤続50年。そして、その自慢は自分でも一部を作った1972年製グラン・トリノ、コブラ・ジェット。
メイルの父親は、国家公務員として金属30年。そして、その自慢は内閣総理大臣からの感謝状。
クリント・イーストウッドの住んでいるところの環境は、ミネソタ州の片田舎の町。なぜか周りには、ベトナム戦争終結直後アメリカに逃れたモン族がいっぱい。
ちなみに、ここではラオスのモン族(Hmong)。
メイルの父親は、東京の下町。なぜか周りには大東亜戦争後リッチになった三国人がいっぱい。
クリント・イーストウッドの妻は、信心深いクリスチャン。
メイルの母親も同じ。ただし、仏教徒。
もっとも、アメリカ人精神剥き出しの口うるさいクリント・イーストウッドに対し、メイルの父親は日本人らしく全くの寡黙だったが…。
それと、クリント・イーストウッドは最後までヘビー・スモーカーだったが、メイルの父親は健康に悪いとわかってすぐに禁煙していた。
その意味では、どちらかというと、クリント・イーストウッドは、メイルにソックリかも。
さて、映画は、冒頭の妻の葬式から、意味深だった。
それまであれこれ言い訳をして疎遠にしていた2人の息子と嫁、そして孫たちが型通りの儀礼で妻の葬式に集まったこと自体に、クリント・イーストウッドはいちいちとキレまくる。
妻の遺体と遺影を前にして、不謹慎極まりなく思いやりのカケラも見せない息子たち、その孫たちの態度に、苦虫を噛みつぶした表情を見せる。
とりわけ、孫娘がへそ出しルックに鼻ピアスとへそピアスには、ドーベルマンのように唸る。
そして、一番大きな孫息子が「Spectacles,testicles,wallet and watch(目ん玉、キンタマ、財布に時計)」と十字架を切って、爆笑した瞬間には、思わず飛びかかりそうになる。
そんな父親の様子を見て、息子は息子で、「オヤジをどうする?」、「なら、兄さんが引き取れよ」と言い合い、クリント・イーストウッドはそれを見て、ブチ切れかかる。
さらに、神父の追悼の祈りの最中に、メールを始めた孫娘に「Jesus」と呟く。
それはその後の家での集会で、「飽きた。こんなところ、早く帰りたい」と言っていた孫娘が、親にうながされ「手伝おうか? オジイチャン」と言った瞬間、「No.You probably just painted your nails(いいよ。爪にマニキュア塗ったばかりだろ!)」と、直接言うことに繋がる。
そして、集会を抜け出し犬の散歩をし、ガレージで孫娘に再び遭って、決定的になる。
未成年のほんのガキのくせにタバコを吸っていた孫娘が、あわてて、「Wow.Grandpa,when did you get the vinntage car(わぅ、オジイチャン、いつこんなビンテージカー買ったの)?」とゴマカす。
すると、「1972」と答えながら、その吸殻を足で踏み消す。
ビビった孫娘は続ける。
「I never knew you had a cool old car(こんなカッコいい古い車を持っていたなんて知らなかったわ)」
「Yeah.Well, it's been here since before you were born(イヤァ、その、オマエが生まれる前からここにあるよ)」
「So...what are you ganna do with it when you, like,die(だから、仮に死んだらこの車どうするの)?」
「........」
「What about that super-cool retro couch you have in the den()? Because I'm going to state next year...and it would look really good in my room, and I don't have any furniture at all(あのむさくるしい書斎の超クールなレトロの長椅子でもいいわ。なぜって、来年には大学に行くつもりだし、あれなら私の部屋にピッタリだと思うの。それにワタシまだ家具何も持ってないし)」
途端、顔をそむけ、ツバをして、立ち去る気持ちがよくわかって、メイルは切ない。
だから、メイルは死んでも葬式が好きじゃない。
介護を超えて、悔悟のままに、「ケビン・クライン」のごとく。
メイルは、なんとも言えない焦燥感を覚えながら、毎日を過ごしている。
それも、まるで因果応報かのように、いや、デジャブかのように、失くした自分の実家のように、古くて大きな家に独りで…。
言われたように朝、雨戸を開け、夕方、雨戸を閉めながら…。
それだけは、実家にいたときですら、やったことがなかったのに…。
メイルは実家を手放すことに、一切のためらいもなかった。
築半世紀以上も経った実家は、メイルの両親が二人で必死に働いて建てたものだった。
それゆえ、二人の介護施設入居のために売りさばくのは当然だと決めつけていた。
メイルの両親は、ことあるごとに、自分の家を持とうとしないメイルに、「この家はオマエが住みなさい」と言っていたが、メイルには全くその気がなかったからだった。
ただ、想定したほどの値段で売れなかったために、それなりの介護施設にしか入れられなかったことは、今でも悔悟している。
どうあれ、メイルは、家にも、墓にも、一切の執着も興味もないのは事実。
それなのに、こうしてお世話になっている老婦人の家を、独りで守ることになるとは、ほんとうに人生とは皮肉なもの。
それも、間違いなく老婦人にとって、人生そのもののような家だから、何一ついじることもできずに…。
そうしながら、メイルは「一日も早く元気で家に戻ってきて…」と祈っているのだが…。
そんなせいか、メイルは、映画「Life as a house(家のような人生)」のケビン・クラインのことばかり思い出している。
ケビン・クラインは、10年前に離婚し、親から譲られた大洋を望む崖の淵のボロ家に独りで住んでいる。
週末にしか会わない息子は、顔中にピアスをつけ、シンナー、マリワナ、ドラッグ三昧の自堕落な生活を送っていて、死人同然…。
そんなある日、CGを使えず建築パースを昔ながらに手作りしているケビン・クラインは、突然、会社を首になる。
その帰り、倒れて病院に搬送され、余命4ヵ月と宣告される。
そのときの看護師との会話は、メイルにとっても他人事ではない。
「I have not been touched in years(何年も人に触れられていない)」
「Really? No, I mean, not a friend? Your mother? People have to be touched.Everyone gets touched by somebody they love(ほんと? だって、友だちじゃなくたって、母親だっているじゃない? 人は触れられたいものよ。誰だって誰か愛する人に触れられるわ)」
「I know. It's weird,Isn't it?(わかってる。ヘンか?)」
………「I'm scared(コワい)」。
そこで、ケビン・クラインは、10年前を最後に触ったこともない息子と家を建て直すことを決意する。
けれども、10年間放っておかれたと感じている息子との溝は簡単に埋まらない。
それこそ、息子は「You haven't been happy in 10 years(アンタは10年間ハッピーだったのかい)?」とまで、ケビン・クラインに尋ねる始末。
メイルは、センシティブな少年というものは、愛する母親が幸せかどうかの視線ですべてのモノゴトを見るものと改めて認識させられたのだが…。
どちらにしても、死を覚悟したケビン・クラインの決意は揺るがない。
それでいて、息子の覚醒を決して焦ったり、無理強いしたりはしない。
なぜなら、息子がまるで自分のようであることを十分に自覚しているからである。
それにしても、死を宣告されなければ、海を照らす朝日や波の音など小さなことに感動しなくなってしまっている人間の何と浅はかなことよ…。
とにかく、まるで自分のような息子と対峙するケビン・クラインには、悲壮感が漂う。
そうこうしているうちに、自分と自分の父親とのことを告白することが、息子の心を開くことになると学習する。
とりわけ、初めての父子の真っ向からの対決は、印象的…。
「My dady used to play this game. I never really understood what it was until after he was gone.The game was to make me smaller than he was.Smaller,always smaller.No matter what.He could be almost invisible as a human being,but...I still had to be smaller.……I never won the game.And if he couldn't make me smaller with words...I won't ever hit you.Ever.I don't want you smaller.I want you to be happy.You're not.Not here with me. Not at home with your mother.Not alone.Not anywhere.You're what I was most of my life.I see it in your eyes,in your sleep,in your answer to everything.You're barely alive(オヤジのゲームは、親父が死んだ後でも理解できないほどのものだった。そのゲームは、オレを何が何でもオヤジより小さな人間にしようというものだった。ありとあらゆることで、ほとんど人間として無視されているオヤジよりもオレが小さな人間でなければ許されなかった。当然、オレはそのゲームに勝てなかった。オヤジは言葉でオレを小さくできないときは暴力を使った。だから、オレは絶対にオマエには手を挙げない。絶対に。オレはオマエを小さな人間になどしたくない。オレはオマエを幸せにしてやりたい。なのに、オマエはどうだ。オレとここにいようが、ママと家にいようが、独りでいようが、どこにいようが、オマエはオレの人生の大半と同じくらい幸せじゃない。それはオマエを見てりゃわかる、寝ている姿を見ればわかる、何に対してもの反応の仕方でわかる。オマエはほとんど生きていないも同然だ)……人間の偉大な点は、少しずつ変わることだ。それも自分でそれと気づかずに変わってしまってから、そのことに初めて気づくもの。Make you something different in an instant.It happened to me. Build this house with me(だが、突然違う何かがオマエを変えることもある。オレがそうなったんだから。この家をオレと一緒に建てよう)」。
ケビン・クラインの必死な説得は、ようやく功を奏す。
「この家はオヤジがオレの名義にしたときから嫌いだった。25年間住んでいる家を憎み、自分自身を憎んだ。終止符を打つ。オレのものと誇れる何かを作ってお前に残したい」
「ムダだよ。オレはいらない」
「いいさ。好きに処分しろ。だけど、一緒に建てたことだけは忘れるな」
「オヤジへの復讐だろ? 笑わせんな」
「いい気分だぞ」と、2人での共同での作業が始まる。
そうしているうちに、ある夜、顔中のピアスを外した息子から、ケビン・クラインに声がかかる。
「鎮痛剤をもらったよ」
「知ってる。どうして?」
「I like how it feels not to feel(感じないっていうことをどのくらい感じられるかって知りたかったから)」
「I know the feeling(その感じはわかる)」
「How do you become something that you're not(どうやったら突然そうじゃない何かになれるのか)?」
「What would you like to be(何になりたいんだ)?」
「What I'm not(今の自分じゃないもの)」
「What are you now?」
「I'm nothing」
「It's not true」
「You see, that's the thing though,is that...I am what I say I am(自分のことは自分でわかる)」
この子どもの思い込みを崩すのは簡単じゃない。
そこで、ケビン・クラインは再びオヤジの、さらにオフクロの話をする。
「一度オヤジの頭に銃を突きつけた。肉の焼き方が足りないとオフクロを怒鳴って、伸びちまった。オレは銃を持ってきてオヤジの耳に銃口を押しつけた。だが、怖気づいた…」
「何か言った?」
「オフクロを思い出していた。オヤジを捨てず、サングラスをかけ夕食の用意をしていた、夜で真っ暗だったのに。みんな気づかないフリをしてた」
「出てきゃいいのに」
「オヤジを恐れてもいたが、離れるのもきっと怖かったんだ」
「オレなら殺す」
「そう、殺していれば、オヤジは酔っ払い運転をせず、オフクロは事故で死ぬこともなかった………You'd have liked your grandomother.She was pretty cool(きっとオフクロを好きになったよ。とってもカッコよかったから」
「You ever wished you'd done it(殺しておけばよかった)?」
「What? Killed my dad(オヤジを殺す)? I loved him too much」
「It's weird(ヘンだよ)」
この会話こそ、親子愛の本質をついていると、メイルは確信している。
けれども、家に全然興味のないメイルにとって、なぜそれが父子で家を建てることなのか?と、今でも納得できずにいる。
それこそ、二人で崖の淵に座り、With every crash of every wave, we hear something now.We never listened before.Almost finshed(それぞれの波のそれぞれに砕ける音を聴きながら、今までに聴いたことのなかった、生きていることの何かを感じ、それがほとんど終わりに近いことを覚悟する)方が、いいと思うのだが…
それも、まるで因果応報かのように、いや、デジャブかのように、失くした自分の実家のように、古くて大きな家に独りで…。
言われたように朝、雨戸を開け、夕方、雨戸を閉めながら…。
それだけは、実家にいたときですら、やったことがなかったのに…。
メイルは実家を手放すことに、一切のためらいもなかった。
築半世紀以上も経った実家は、メイルの両親が二人で必死に働いて建てたものだった。
それゆえ、二人の介護施設入居のために売りさばくのは当然だと決めつけていた。
メイルの両親は、ことあるごとに、自分の家を持とうとしないメイルに、「この家はオマエが住みなさい」と言っていたが、メイルには全くその気がなかったからだった。
ただ、想定したほどの値段で売れなかったために、それなりの介護施設にしか入れられなかったことは、今でも悔悟している。
どうあれ、メイルは、家にも、墓にも、一切の執着も興味もないのは事実。
それなのに、こうしてお世話になっている老婦人の家を、独りで守ることになるとは、ほんとうに人生とは皮肉なもの。
それも、間違いなく老婦人にとって、人生そのもののような家だから、何一ついじることもできずに…。
そうしながら、メイルは「一日も早く元気で家に戻ってきて…」と祈っているのだが…。
そんなせいか、メイルは、映画「Life as a house(家のような人生)」のケビン・クラインのことばかり思い出している。
ケビン・クラインは、10年前に離婚し、親から譲られた大洋を望む崖の淵のボロ家に独りで住んでいる。
週末にしか会わない息子は、顔中にピアスをつけ、シンナー、マリワナ、ドラッグ三昧の自堕落な生活を送っていて、死人同然…。
そんなある日、CGを使えず建築パースを昔ながらに手作りしているケビン・クラインは、突然、会社を首になる。
その帰り、倒れて病院に搬送され、余命4ヵ月と宣告される。
そのときの看護師との会話は、メイルにとっても他人事ではない。
「I have not been touched in years(何年も人に触れられていない)」
「Really? No, I mean, not a friend? Your mother? People have to be touched.Everyone gets touched by somebody they love(ほんと? だって、友だちじゃなくたって、母親だっているじゃない? 人は触れられたいものよ。誰だって誰か愛する人に触れられるわ)」
「I know. It's weird,Isn't it?(わかってる。ヘンか?)」
………「I'm scared(コワい)」。
そこで、ケビン・クラインは、10年前を最後に触ったこともない息子と家を建て直すことを決意する。
けれども、10年間放っておかれたと感じている息子との溝は簡単に埋まらない。
それこそ、息子は「You haven't been happy in 10 years(アンタは10年間ハッピーだったのかい)?」とまで、ケビン・クラインに尋ねる始末。
メイルは、センシティブな少年というものは、愛する母親が幸せかどうかの視線ですべてのモノゴトを見るものと改めて認識させられたのだが…。
どちらにしても、死を覚悟したケビン・クラインの決意は揺るがない。
それでいて、息子の覚醒を決して焦ったり、無理強いしたりはしない。
なぜなら、息子がまるで自分のようであることを十分に自覚しているからである。
それにしても、死を宣告されなければ、海を照らす朝日や波の音など小さなことに感動しなくなってしまっている人間の何と浅はかなことよ…。
とにかく、まるで自分のような息子と対峙するケビン・クラインには、悲壮感が漂う。
そうこうしているうちに、自分と自分の父親とのことを告白することが、息子の心を開くことになると学習する。
とりわけ、初めての父子の真っ向からの対決は、印象的…。
「My dady used to play this game. I never really understood what it was until after he was gone.The game was to make me smaller than he was.Smaller,always smaller.No matter what.He could be almost invisible as a human being,but...I still had to be smaller.……I never won the game.And if he couldn't make me smaller with words...I won't ever hit you.Ever.I don't want you smaller.I want you to be happy.You're not.Not here with me. Not at home with your mother.Not alone.Not anywhere.You're what I was most of my life.I see it in your eyes,in your sleep,in your answer to everything.You're barely alive(オヤジのゲームは、親父が死んだ後でも理解できないほどのものだった。そのゲームは、オレを何が何でもオヤジより小さな人間にしようというものだった。ありとあらゆることで、ほとんど人間として無視されているオヤジよりもオレが小さな人間でなければ許されなかった。当然、オレはそのゲームに勝てなかった。オヤジは言葉でオレを小さくできないときは暴力を使った。だから、オレは絶対にオマエには手を挙げない。絶対に。オレはオマエを小さな人間になどしたくない。オレはオマエを幸せにしてやりたい。なのに、オマエはどうだ。オレとここにいようが、ママと家にいようが、独りでいようが、どこにいようが、オマエはオレの人生の大半と同じくらい幸せじゃない。それはオマエを見てりゃわかる、寝ている姿を見ればわかる、何に対してもの反応の仕方でわかる。オマエはほとんど生きていないも同然だ)……人間の偉大な点は、少しずつ変わることだ。それも自分でそれと気づかずに変わってしまってから、そのことに初めて気づくもの。Make you something different in an instant.It happened to me. Build this house with me(だが、突然違う何かがオマエを変えることもある。オレがそうなったんだから。この家をオレと一緒に建てよう)」。
ケビン・クラインの必死な説得は、ようやく功を奏す。
「この家はオヤジがオレの名義にしたときから嫌いだった。25年間住んでいる家を憎み、自分自身を憎んだ。終止符を打つ。オレのものと誇れる何かを作ってお前に残したい」
「ムダだよ。オレはいらない」
「いいさ。好きに処分しろ。だけど、一緒に建てたことだけは忘れるな」
「オヤジへの復讐だろ? 笑わせんな」
「いい気分だぞ」と、2人での共同での作業が始まる。
そうしているうちに、ある夜、顔中のピアスを外した息子から、ケビン・クラインに声がかかる。
「鎮痛剤をもらったよ」
「知ってる。どうして?」
「I like how it feels not to feel(感じないっていうことをどのくらい感じられるかって知りたかったから)」
「I know the feeling(その感じはわかる)」
「How do you become something that you're not(どうやったら突然そうじゃない何かになれるのか)?」
「What would you like to be(何になりたいんだ)?」
「What I'm not(今の自分じゃないもの)」
「What are you now?」
「I'm nothing」
「It's not true」
「You see, that's the thing though,is that...I am what I say I am(自分のことは自分でわかる)」
この子どもの思い込みを崩すのは簡単じゃない。
そこで、ケビン・クラインは再びオヤジの、さらにオフクロの話をする。
「一度オヤジの頭に銃を突きつけた。肉の焼き方が足りないとオフクロを怒鳴って、伸びちまった。オレは銃を持ってきてオヤジの耳に銃口を押しつけた。だが、怖気づいた…」
「何か言った?」
「オフクロを思い出していた。オヤジを捨てず、サングラスをかけ夕食の用意をしていた、夜で真っ暗だったのに。みんな気づかないフリをしてた」
「出てきゃいいのに」
「オヤジを恐れてもいたが、離れるのもきっと怖かったんだ」
「オレなら殺す」
「そう、殺していれば、オヤジは酔っ払い運転をせず、オフクロは事故で死ぬこともなかった………You'd have liked your grandomother.She was pretty cool(きっとオフクロを好きになったよ。とってもカッコよかったから」
「You ever wished you'd done it(殺しておけばよかった)?」
「What? Killed my dad(オヤジを殺す)? I loved him too much」
「It's weird(ヘンだよ)」
この会話こそ、親子愛の本質をついていると、メイルは確信している。
けれども、家に全然興味のないメイルにとって、なぜそれが父子で家を建てることなのか?と、今でも納得できずにいる。
それこそ、二人で崖の淵に座り、With every crash of every wave, we hear something now.We never listened before.Almost finshed(それぞれの波のそれぞれに砕ける音を聴きながら、今までに聴いたことのなかった、生きていることの何かを感じ、それがほとんど終わりに近いことを覚悟する)方が、いいと思うのだが…
介護を超えて、悔悟のままに、「トム・ハンクス」のごとく-5
メイルは5年振りという冬将軍の来日に、暗澹たる思いでいる。
寒さは、とかくネガティブ思考を生みがち。
そうでなくても、寒いのが生理的に苦手なメイル、今までなら暖かさを求めムリしても南の島に逃れていたはずなのに、さすがに今はそんな時期ではないと自重している。
できることを淡々とするだけ…という信念もあるが、とても気に病んでいる問題があるからである。
お世話になっている階下の老婦人が、昨年末入院したまま、いまだに戻ってこないのである。
「まもなく1ヵ月になる…」と心配しつつ、メイルは居候でありながら、大きな家の留守番をしている。
入院した目的である脊椎の骨折手術は成功したのに、予後、心臓と肺の機能低下が診られるというから、正直、気がかり。
高年齢者が注意すべきは、やはり心臓と肺、それに直結する腎臓。
そうでなくても、整形外科的術後は、寒さが大敵なはず。
とにもかくにも、メイルは見舞いに行けない面映ゆさを覚えながらも、老婦人が入院前より少しでも元気になって帰宅できることを祈る毎日…。
というのも、お世話になっている恩返しをまだ果たしていないからである。
そして、凍結した道路を歩きながら、わざと大きく滑ってみて、「ツルっと恩返し、鶴の恩返し!」と頬を引きつらせてオドケテ見せている。
「それにしても、寒過ぎる。やたらとノドが乾燥する。心身ともに凍りそう」と、ときどき独り言を言いながら…」。
そうしては、当然のごとくメイルは、また自分の母親のことを思い出す。
ベッドに不自然に横たわり、何とか動かせる左手でメイルの手を強く握り、「お願い。もうこんな状態はイヤ。ガマンできない」と懸命にメイルを見つめた、あの母親の眼差しを…。
それを黙って見ていることができず、メイルは「仕事だから」と偽って、グアムに独りで逃げ出していた情けない自分を思い出しては、また悔悟している。
そう言えば、映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」で、トム・ハンクスとメイルのお気に入りのメグ・ライアンが1人3役で演じるパトリシアの間でも、同じようなシーンがあった。
今考えると、母親の介護をしながら、何度もメイルが常夏の南の島に逃げ出したのは、そのせいだったかも知れない。
余命いくばくもないと宣告されたトム・ハンクスが、南の島のある火山島を救うイケニエになるために、メグ・ライアンのヨットで、LAを出帆する。
魂を病んでいるメグ・ライアンは、同じく魂を病んでいる腹違いの姉と寝なかったトム・ハンクスに好意を寄せる。
けれども、途中、台風に遭遇し、ヨットが沈没。
2人は、南太平洋に投げ出され、トム・ハンクスが運んでいた巨大トランクで漂流する。
気を失ったままのメグ・ライアン。
自暴自棄だったトム・ハンクスだが、必死でメグ・ライアンを助けようと、自分で水を飲まず、彼女の口に水を含ませ続ける。
そして、その横で、踊ったり、ウクレレで歌ったり、ゴルフのパッティングをしたりしながら、大空の太陽を、夜空の満天の星を、満月を見つめる。
それから、メグ・ライアンの命を助けてと祈る。
そして、突然、満月に向かって両手を上げ大声で叫ぶ。
「Dear God...Whose name I don't know...Thank you for my life...Thank you...I forgot how big...Thank you for my life(親愛なる神様…誰の名か知らないが…我が命に感謝します…心から感謝します…忘れていました、いかに偉大かを…我が命に感謝します)」
2人には、この後ラブコメらしい奇跡が数々起き、ハッピーエンドで終わる話。
実は、メイルも母親にそんな奇跡が起きることを、南の島で祈っていた。
だから、今また、「今度こそは、奇跡を!」と、もう一度南の島に行って、祈ってみたい気持ちがあるのだが…。
それは困難なのが自分の置かれた状況。
そこで、トム・ハンクスが言ったように、「I have wasted my entire life and I'm going to die.I have a chance to die like a man.I have to take it.I have to be brave.I have to jump(すべての人生をムダにしてきた。死ぬつもり。男らしく死ぬ絶好のチャンス。ジャンプしなきゃ、勇敢にならなきゃ、ジャンプしなきゃ) 」と勇気を持って老婦人を見舞に行くしかないか?と覚悟している。
そして、老婦人に直接、メグ・ライアンが「愛しているから、一緒に火山に飛び込む」とトム・ハンクスに言い返したように、「Whither thou goest,I go.Nobody knows anything.We'll take this leap we'll see.That's life(共にどこまでもよ。誰も知らないのよ。飛んでみなきゃ何もわからないのよ。人生は)」と声をかけてみたいと考えているのだが…。
寒さは、とかくネガティブ思考を生みがち。
そうでなくても、寒いのが生理的に苦手なメイル、今までなら暖かさを求めムリしても南の島に逃れていたはずなのに、さすがに今はそんな時期ではないと自重している。
できることを淡々とするだけ…という信念もあるが、とても気に病んでいる問題があるからである。
お世話になっている階下の老婦人が、昨年末入院したまま、いまだに戻ってこないのである。
「まもなく1ヵ月になる…」と心配しつつ、メイルは居候でありながら、大きな家の留守番をしている。
入院した目的である脊椎の骨折手術は成功したのに、予後、心臓と肺の機能低下が診られるというから、正直、気がかり。
高年齢者が注意すべきは、やはり心臓と肺、それに直結する腎臓。
そうでなくても、整形外科的術後は、寒さが大敵なはず。
とにもかくにも、メイルは見舞いに行けない面映ゆさを覚えながらも、老婦人が入院前より少しでも元気になって帰宅できることを祈る毎日…。
というのも、お世話になっている恩返しをまだ果たしていないからである。
そして、凍結した道路を歩きながら、わざと大きく滑ってみて、「ツルっと恩返し、鶴の恩返し!」と頬を引きつらせてオドケテ見せている。
「それにしても、寒過ぎる。やたらとノドが乾燥する。心身ともに凍りそう」と、ときどき独り言を言いながら…」。
そうしては、当然のごとくメイルは、また自分の母親のことを思い出す。
ベッドに不自然に横たわり、何とか動かせる左手でメイルの手を強く握り、「お願い。もうこんな状態はイヤ。ガマンできない」と懸命にメイルを見つめた、あの母親の眼差しを…。
それを黙って見ていることができず、メイルは「仕事だから」と偽って、グアムに独りで逃げ出していた情けない自分を思い出しては、また悔悟している。
そう言えば、映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」で、トム・ハンクスとメイルのお気に入りのメグ・ライアンが1人3役で演じるパトリシアの間でも、同じようなシーンがあった。
今考えると、母親の介護をしながら、何度もメイルが常夏の南の島に逃げ出したのは、そのせいだったかも知れない。
余命いくばくもないと宣告されたトム・ハンクスが、南の島のある火山島を救うイケニエになるために、メグ・ライアンのヨットで、LAを出帆する。
魂を病んでいるメグ・ライアンは、同じく魂を病んでいる腹違いの姉と寝なかったトム・ハンクスに好意を寄せる。
けれども、途中、台風に遭遇し、ヨットが沈没。
2人は、南太平洋に投げ出され、トム・ハンクスが運んでいた巨大トランクで漂流する。
気を失ったままのメグ・ライアン。
自暴自棄だったトム・ハンクスだが、必死でメグ・ライアンを助けようと、自分で水を飲まず、彼女の口に水を含ませ続ける。
そして、その横で、踊ったり、ウクレレで歌ったり、ゴルフのパッティングをしたりしながら、大空の太陽を、夜空の満天の星を、満月を見つめる。
それから、メグ・ライアンの命を助けてと祈る。
そして、突然、満月に向かって両手を上げ大声で叫ぶ。
「Dear God...Whose name I don't know...Thank you for my life...Thank you...I forgot how big...Thank you for my life(親愛なる神様…誰の名か知らないが…我が命に感謝します…心から感謝します…忘れていました、いかに偉大かを…我が命に感謝します)」
2人には、この後ラブコメらしい奇跡が数々起き、ハッピーエンドで終わる話。
実は、メイルも母親にそんな奇跡が起きることを、南の島で祈っていた。
だから、今また、「今度こそは、奇跡を!」と、もう一度南の島に行って、祈ってみたい気持ちがあるのだが…。
それは困難なのが自分の置かれた状況。
そこで、トム・ハンクスが言ったように、「I have wasted my entire life and I'm going to die.I have a chance to die like a man.I have to take it.I have to be brave.I have to jump(すべての人生をムダにしてきた。死ぬつもり。男らしく死ぬ絶好のチャンス。ジャンプしなきゃ、勇敢にならなきゃ、ジャンプしなきゃ) 」と勇気を持って老婦人を見舞に行くしかないか?と覚悟している。
そして、老婦人に直接、メグ・ライアンが「愛しているから、一緒に火山に飛び込む」とトム・ハンクスに言い返したように、「Whither thou goest,I go.Nobody knows anything.We'll take this leap we'll see.That's life(共にどこまでもよ。誰も知らないのよ。飛んでみなきゃ何もわからないのよ。人生は)」と声をかけてみたいと考えているのだが…。
介護を超えて、悔悟のままに、「トム・ハンクス」のごとく-4
メイルにとって、正月を独りで迎えたのは、生まれて初めてだった。
お世話になっている老婦人が暮れに入院したために、まるで家を守るかのように一人。
この実家のような古い木造住宅には、部屋がたくさんあるので、かなり緊張する。
元旦の夜には、いきなり「緊急事態が発生しました」というセキュリティ会社のデジタル音声と同時に、大きなチャイムが鳴り始め、すっかり動揺させられた。
情けないことに、正月早々、強盗の襲来か?と、メイルはとっさに武器になるかもと大型懐中電灯を手に、恐る恐る階下に降りた。
木造のサッシではない窓のせいか、階下は極めてヒンヤリしていて、胃が締めつけられた。
階下には、昔の人らしく包丁がたくさん並んでいる。
メイルは、名誉のためにも、強盗を退治しなければという使命感で夢中だった。
入院している間に、強盗に入られたでは、あまりにも面目なさ過ぎで、ますます居づらくなる。
メイルは、心臓をバクバクさせながらも、必死に身構えながら、そのセキュリティシステムの機器がピクルトで表示しているお風呂場、奥の寝室をそっとチェックした。
まずお風呂場だろうな侵入者は?と、音を立てないように気をつけながら、「誰だ?」と思わず声を上げて、扉を開けた。
そのデジタル音声とチャイムの音がどんどん大きくなってきた気がする。
すると、誰もいないばかりか、窓も壊されていない。
メイルは油断することなく、奥の老婦人の部屋の扉に近づいた。
そこで、初めてこの家にお世話になって1年半、その奥の部屋に入ったことがないことに気づいて、ますます緊張する。
懐中電灯を点け、テレビで観たSWATの突入のように思いきり扉を開け、中を照らした。
いきなり仏壇が、大きな老婦人の亡くなったご主人の遺影が目に入り、ビビった。
その暗闇は、かなり広い。
メイルは、思わずいったん台所に行き、フライパンをもう一方の手にした。
それから、急いで扉の前に戻ると、恐る恐る扉の内側のライトを点けた。
スーっとした冷気と独特の老人臭が広がってきたが、誰もいる様子がなかった。
メイルは少しホッとしながらも、念入りにその部屋をチェックし、間違いなく誰もいないことを確認してから、やっと気の狂ったように大声を上げているセキュリティシステムの機器を何とかしなきゃと考えた。
そして、セキュリティ会社に電話し、やっとのことでそれを止められ、シミジミと思った。
正月、独りで過ごすことは、イヤでないばかりか望むことなのに、もっと狭い家がいい…と。
それで、思い出したことがある。
メイルが、正月、初めて働いたのは、高校三年のときだった。
家出し、大晦日まではデパートのおせち料理売り場で、元旦からは年賀状の配達のバイトをした。
3畳一間の自分の部屋の家賃と生活費と受験料を稼ぐためだった。
そして、なぜ郵便局のバイトをしたかというと、バイトが終わった後にボイラー室の仮設バスに入れるからだった。
それから、部屋に帰ると、ガールフレンドが家からお雑煮とおせち料理をタクシーで運んで待っていてくれた。
つまり、そんなときでも、正月、メイルは一人ぽっちではなかった。
それが、こうして一人ぼっちの正月を迎えても、何の動揺も狼狽もない。
基本的に人間は一人であることをイヤと言うほど確認するからこそ、人の温もりを求めるし、人を愛するもの。
その意味で、一人であることを必要以上に寂しいと思わないし、あたふたしない。
その家出したときだって、自殺など一度も考えなかったし、家を出て自立しようと本気で思っただけ。
母親と受験のことでケンカして、「自分で好きにしたいのだから、自分で何もかもをやる」と即決しただけ。
それが人間だと思っただけ。
メイルは、確かにハスッパな少年だった。
家出、そしてこの「ハスッパ」という言葉が出てくると、自然に映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」のトム・ハンクスを、お気に入りのメグ・ライアンが1人3役で演じるアンジェリカを思い出す。
2人の最初のLAでの出会いで、いきなりメグ・ライアンがトム・ハンクスに、「I'm totally untrustworthy.I'm a flibbertigibbet(ワタシ全く信用ないの。ハスッパだから)」と言うのが、メチャクチャかわいい。
自分を否定的に話す女性は、どこかアドラブル。
そんなワガママ娘が、いいムードの中であくまでシリアスにものを言うと、実にキュート。
突然、トム・ハンクスにメグ・ライアンが言う。
メイルはこのやり取りが大好き。
「You ever think about killing yourself(自殺を考えたことがある)?」
「What? Why would you do that(何? 何でそんなことを考えるの)?」
「Why shouldn't I(なぜ考えちゃダメ)?」
「Because some things take care of themselves. They're not your job. Maybe not even your business(なぜって、そんなようなことはそれ自身で自然に解決するもの。自殺するようなことは仕事じゃないし、関係してもいけない)」
......
「ねぇ、聞いて。If you have a choice between killing yourself, and doing something you're scared of doing...why not do the thing you're scared of doing(もし自殺するのとすることが怖いことをやるということの、どちらかを選ぶとしたら、することが怖いことをやるということを選ぶべきじゃないか)?」
メイルは、自分が家出という選択をしたことをこのシーンを観るたびに、自画自賛する。
それはそうだと思わないか?
生きるということは、怖いこと。
自殺することも怖いし、するのが怖いことをやるのはもっと怖いこと。
でも、一人の人間として生を受けた以上、するのが怖いことをやってみることが大事なのでは?
トム・ハンクスは言う。
「You see? You know what you're scared of doing.Why don't you do it? See what happens(ほらね。自分でするのが怖いことをやるのが何かわかってるじゃないか? なぜやらない? やってどうなるのか見てみればいいじゃないか)?」
その答えに対し、メグ・ライアンはまるで今の日本の子どもたちのように反発する。
「こんなふうに何もかもオープンにすべてを話したところで、アナタは何も損しないものね」
トム・ハンクスは、情けなくてみっともない日本の親や教師と違い、明確に答える。
「そういうキミのことがわからないし、誰のこともわかない。You're angry I can see that .I'm very troubled.I'm not ready to..Thre's only so much time, and you want to use it well.So, I'm here, talking to you.I don't want to throw that away(でも、キミが怒ってるのはわかるし、ボクも悩んでいるし、どうしていいかわからないし、キミにうまく使って欲しい時間だけは十分ある。だから、ここにいて、キミと話しているし、そのことを投げ出したくない)」
何もわからないくせにわかったフリをして偉そうなことを言う人より、よっぽどいいと思わないか?こういう答えが…。
その相手への思いやりは、メグ・ライアンが「Want me to come up with you(寄って欲しい)?」と誘ったとき、弱って破れかぶれになりそうな女性に手を出さず、「No」と帰して部屋に戻らず、一人ぽっちでLAの海を見つめながら夜明けを迎えることで、一目瞭然。
メイルも、毎日、そんな気持ちで生きている。
お世話になっている老婦人が暮れに入院したために、まるで家を守るかのように一人。
この実家のような古い木造住宅には、部屋がたくさんあるので、かなり緊張する。
元旦の夜には、いきなり「緊急事態が発生しました」というセキュリティ会社のデジタル音声と同時に、大きなチャイムが鳴り始め、すっかり動揺させられた。
情けないことに、正月早々、強盗の襲来か?と、メイルはとっさに武器になるかもと大型懐中電灯を手に、恐る恐る階下に降りた。
木造のサッシではない窓のせいか、階下は極めてヒンヤリしていて、胃が締めつけられた。
階下には、昔の人らしく包丁がたくさん並んでいる。
メイルは、名誉のためにも、強盗を退治しなければという使命感で夢中だった。
入院している間に、強盗に入られたでは、あまりにも面目なさ過ぎで、ますます居づらくなる。
メイルは、心臓をバクバクさせながらも、必死に身構えながら、そのセキュリティシステムの機器がピクルトで表示しているお風呂場、奥の寝室をそっとチェックした。
まずお風呂場だろうな侵入者は?と、音を立てないように気をつけながら、「誰だ?」と思わず声を上げて、扉を開けた。
そのデジタル音声とチャイムの音がどんどん大きくなってきた気がする。
すると、誰もいないばかりか、窓も壊されていない。
メイルは油断することなく、奥の老婦人の部屋の扉に近づいた。
そこで、初めてこの家にお世話になって1年半、その奥の部屋に入ったことがないことに気づいて、ますます緊張する。
懐中電灯を点け、テレビで観たSWATの突入のように思いきり扉を開け、中を照らした。
いきなり仏壇が、大きな老婦人の亡くなったご主人の遺影が目に入り、ビビった。
その暗闇は、かなり広い。
メイルは、思わずいったん台所に行き、フライパンをもう一方の手にした。
それから、急いで扉の前に戻ると、恐る恐る扉の内側のライトを点けた。
スーっとした冷気と独特の老人臭が広がってきたが、誰もいる様子がなかった。
メイルは少しホッとしながらも、念入りにその部屋をチェックし、間違いなく誰もいないことを確認してから、やっと気の狂ったように大声を上げているセキュリティシステムの機器を何とかしなきゃと考えた。
そして、セキュリティ会社に電話し、やっとのことでそれを止められ、シミジミと思った。
正月、独りで過ごすことは、イヤでないばかりか望むことなのに、もっと狭い家がいい…と。
それで、思い出したことがある。
メイルが、正月、初めて働いたのは、高校三年のときだった。
家出し、大晦日まではデパートのおせち料理売り場で、元旦からは年賀状の配達のバイトをした。
3畳一間の自分の部屋の家賃と生活費と受験料を稼ぐためだった。
そして、なぜ郵便局のバイトをしたかというと、バイトが終わった後にボイラー室の仮設バスに入れるからだった。
それから、部屋に帰ると、ガールフレンドが家からお雑煮とおせち料理をタクシーで運んで待っていてくれた。
つまり、そんなときでも、正月、メイルは一人ぽっちではなかった。
それが、こうして一人ぼっちの正月を迎えても、何の動揺も狼狽もない。
基本的に人間は一人であることをイヤと言うほど確認するからこそ、人の温もりを求めるし、人を愛するもの。
その意味で、一人であることを必要以上に寂しいと思わないし、あたふたしない。
その家出したときだって、自殺など一度も考えなかったし、家を出て自立しようと本気で思っただけ。
母親と受験のことでケンカして、「自分で好きにしたいのだから、自分で何もかもをやる」と即決しただけ。
それが人間だと思っただけ。
メイルは、確かにハスッパな少年だった。
家出、そしてこの「ハスッパ」という言葉が出てくると、自然に映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」のトム・ハンクスを、お気に入りのメグ・ライアンが1人3役で演じるアンジェリカを思い出す。
2人の最初のLAでの出会いで、いきなりメグ・ライアンがトム・ハンクスに、「I'm totally untrustworthy.I'm a flibbertigibbet(ワタシ全く信用ないの。ハスッパだから)」と言うのが、メチャクチャかわいい。
自分を否定的に話す女性は、どこかアドラブル。
そんなワガママ娘が、いいムードの中であくまでシリアスにものを言うと、実にキュート。
突然、トム・ハンクスにメグ・ライアンが言う。
メイルはこのやり取りが大好き。
「You ever think about killing yourself(自殺を考えたことがある)?」
「What? Why would you do that(何? 何でそんなことを考えるの)?」
「Why shouldn't I(なぜ考えちゃダメ)?」
「Because some things take care of themselves. They're not your job. Maybe not even your business(なぜって、そんなようなことはそれ自身で自然に解決するもの。自殺するようなことは仕事じゃないし、関係してもいけない)」
......
「ねぇ、聞いて。If you have a choice between killing yourself, and doing something you're scared of doing...why not do the thing you're scared of doing(もし自殺するのとすることが怖いことをやるということの、どちらかを選ぶとしたら、することが怖いことをやるということを選ぶべきじゃないか)?」
メイルは、自分が家出という選択をしたことをこのシーンを観るたびに、自画自賛する。
それはそうだと思わないか?
生きるということは、怖いこと。
自殺することも怖いし、するのが怖いことをやるのはもっと怖いこと。
でも、一人の人間として生を受けた以上、するのが怖いことをやってみることが大事なのでは?
トム・ハンクスは言う。
「You see? You know what you're scared of doing.Why don't you do it? See what happens(ほらね。自分でするのが怖いことをやるのが何かわかってるじゃないか? なぜやらない? やってどうなるのか見てみればいいじゃないか)?」
その答えに対し、メグ・ライアンはまるで今の日本の子どもたちのように反発する。
「こんなふうに何もかもオープンにすべてを話したところで、アナタは何も損しないものね」
トム・ハンクスは、情けなくてみっともない日本の親や教師と違い、明確に答える。
「そういうキミのことがわからないし、誰のこともわかない。You're angry I can see that .I'm very troubled.I'm not ready to..Thre's only so much time, and you want to use it well.So, I'm here, talking to you.I don't want to throw that away(でも、キミが怒ってるのはわかるし、ボクも悩んでいるし、どうしていいかわからないし、キミにうまく使って欲しい時間だけは十分ある。だから、ここにいて、キミと話しているし、そのことを投げ出したくない)」
何もわからないくせにわかったフリをして偉そうなことを言う人より、よっぽどいいと思わないか?こういう答えが…。
その相手への思いやりは、メグ・ライアンが「Want me to come up with you(寄って欲しい)?」と誘ったとき、弱って破れかぶれになりそうな女性に手を出さず、「No」と帰して部屋に戻らず、一人ぽっちでLAの海を見つめながら夜明けを迎えることで、一目瞭然。
メイルも、毎日、そんな気持ちで生きている。
介護を超えて、悔悟のままに、「トム・ハンクス」のごとく-3
メイルは、お世話になっている老婦人が、脊椎を骨折していたことが判明して、複雑な気持ちになっている。
人間いくつになっても、痛いのをガマンできるわけもない。
それで、メイルは、唐突と思い出したことがある。
実は、メイルの母親も脳梗塞で介護度5になってしまう前に、階段で転んで脳挫傷を負い緊急入院したことがあった。
けれども、それが瞬く間に元通りになったように見えたので、すっかりそのことを忘れてしまっていた。
「やった! 奇跡が起きたんだ! これで、母親は二度とこんな目に遭わなくてすむし、自分もこれで介護の大役を終了だ! 沖の干潟遥かだったのに、磯より潮が一度満ちた以上、これで二度と満ちない」と勝手に安穏としていた。
人間とは摩訶不思議なもので、逃れられない大事に直面すると、逃れられた大事のことはついつい眼中になくなってしまうものらしい…。
メイルは、望むことが到底ムリなのに、そう思い込みたいだけで、また奇跡は起きると信じたがり、母親にさらなる苦難を与えていたのかも知れない。
今さらながら、二回目の脳梗塞はあの一回目の脳挫傷の延長線にあったもので、一度も完治などしていなかったのかも知れないと悔悟し、自責の念に駆られている。
そう言えば、その脳挫傷のときも最初から、担当したERの医師から、「脳の7割に損傷が見られ、持って1、2週間。
ここ数日が山。そのうえ、胸骨も完全骨折していて回復の見込みがない」と、延命措置を施さないという旨のペーパーにサインさせられていた。
夫である父親も、兄もいたのに、母親の命のすべての責任をなぜかメイルは背負わされてしまっていた。
それなのに、その担当医をして「これはミラクル! まさにミラクル!」と言わせしめるような回復をし、母親の脳にあった不気味なカゲが消えたとき、母親に「胸が痛い! 胸が痛い!」と言い出し始めて、すっかり閉口させられてた。
それはそうである。
脳挫傷の治癒を最優先し、胸骨の骨折の処置は全く施していなかったのだから、至極当然。
それでも、あまりに痛がるので、一応担当医に質問してみた。
「胸骨の痛みを取るのにはどうしたらいいですか?」
「手術をして、骨折してしまった部分を固定するしかない」
「それって大手術なのですか?」
「それほどでもないが、全身麻酔でやるしかない手術になるけど?」
「えっ、全身麻酔なんてしたら、せっかく覚醒している母の頭に問題が生じないんですか?」
「それは何とも言えない。間違いなくそのリスクはある」
「だったら手術はボクの判断でやりません。母だって脳を覚醒させておくことを選ぶはずですから…」
メイルの独断で、母親は1年近く「胸が痛い」と言い続けることになったが、胸骨を骨折していたことは最後まで伝えなかった。
今思うと、母親はよくガマンしたと感心するだけだが…。
そのことがあるのか、老婦人が脊椎の骨折を治癒するために入院を決意したと聞いたとき、メイルにはその苦渋の決断の理由が手に取るようにわかって、ますます複雑な気持ちでいる。
自分の母親の介護度5の暮らしの5年半を再び克明に思い出し、「90歳を過ぎても、家族と普通に会話ができ、自分で食べたいものが食べたいように食べられるのに、何が不満なの?」と聞いてみたい気持ちもする。
が、それ以上に、「頭脳明晰なうえ、精神があれだけ鮮明だと、辛いかも?」と同情している。
メイルは、実際のフィジカルな痛みよりも、自分が面倒をかけている家族への配慮におけるメンタルな痛みで、彼女が入院を選んだに違いない。
とりわけ、彼女は24時間体制で下の世話をさせるハメになってしまっている自分の家族を、目いっぱい思いやって入院での他人の世話になる道を選択したに違いない。
メイルは、客観的な立場なので、イヤと言うほど彼女の気持ちがわかる。
冷静に見れば、彼女を介護している家族の一人一人に、かなりの疲労困憊の様子が滲み出てきているのも事実だからである。
「一人の人間として普通に一所懸命生きている限り、それは自然。そのムリが伝わらないように隠し続けることは極めて酷で、困難。いかに介護されるか? いかに介護するか? どちらも、一人の人間としてのの尊厳にかかわることなので、すべてを本人に委ねるしかない」と、少なくとも、メイルには理解できるのだが…。
メイルは、新たに介護を両方の立場で凝視しながら、映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」のトム・ハンクスとリムジン・ドライバーとの会話を思い出している。
NYのスタテン島の貧しい若者だったトム・ハンクスが、マンハッタンで一世一代のヤケクソのショッピングをすることになったときの絶妙な人間的会話…。
「Where would you like to go shopping(どこに行く)?」
「少しショッピングをしたい」
「どちらまでショピングに?」
「わかんない」
「オーライ」
「キミならどこに行く?」
「What for? What do you need(何のため? 何が欲しい)?」
「服」
「What kind? What's your taste?(どんな服)?」
「本当にわかんない」
「You hired me to drive the car, not to tell who you are(車のドライバーとして雇われたので、アンタが誰かと言うためにではない)」
「そんなこと頼んでない」
「You're hinting around about clothes.That's an important topic to me.Clothes make the man.I believe that.You say you want to buy clothes, but you don't know what kind.You leave it hanging in the air like I'll fillin the blanks .That's like asking me who you are, I don't know who you are.I don't want to know. It's taken me all my life to find out who I am, and I am tired now.(アンタは服を探しているとヒントをくれるばかり。私には重要なことなのに何だ。服は人を作るものと私は信じてるけど、アンタは服が欲しいと言ってるのにどんな服かはわからないというだけ。空いた括弧内に言葉を埋めるかのようで、よくわからないまま。それじゃ、アンタが何者かを問われているようなもので、私にやわからないし、知りたくもない。すでに自分の人生で自分は一体何?と問い続けてきたこともあって、すっかり疲れているんだから、どうでもいい)」
まるで、人間関係のあり方の基本が、そこにあるようだったとメイルは感動したのだが…。
それはそうだと思わないか?
生きていることの実感、そのリアリティの主張が服、ファッション。
いかに物質的に満足していようがしていまいが、それこそ、精神的に満足していようがしていまいが、着たいモノを着たいように着れるもの。
そのバイブレーション、インスピレーションのままに、最低限自分の存在を表現できるのが服、ファッション。
その意味では、老婦人も、メイルの母親同様、まだまだ身だしなみに細心の注意を払う姿勢を見せているから、痛みをガマンしようしていないから、目いっぱい生きようとしている意気があるとホッとできる。
だからこそ、メイルは、老婦人に、「母のように介護度5になったら、服すら自分で選べなくなってしまうのだから、そうならないだけ幸運」と感じて欲しいと願ってもいるのだが…。
どちらにしても、「介護される人間の歯痒さ、自己嫌悪、悔しさと、介護する人間の献身、一生懸命、モドカシサとのギャップは、まるで恋愛のようにピッタリ波長が合うことは困難であることだけは、恒久不変の真実なのかも」と、メイルは改めて確信している。
人間いくつになっても、痛いのをガマンできるわけもない。
それで、メイルは、唐突と思い出したことがある。
実は、メイルの母親も脳梗塞で介護度5になってしまう前に、階段で転んで脳挫傷を負い緊急入院したことがあった。
けれども、それが瞬く間に元通りになったように見えたので、すっかりそのことを忘れてしまっていた。
「やった! 奇跡が起きたんだ! これで、母親は二度とこんな目に遭わなくてすむし、自分もこれで介護の大役を終了だ! 沖の干潟遥かだったのに、磯より潮が一度満ちた以上、これで二度と満ちない」と勝手に安穏としていた。
人間とは摩訶不思議なもので、逃れられない大事に直面すると、逃れられた大事のことはついつい眼中になくなってしまうものらしい…。
メイルは、望むことが到底ムリなのに、そう思い込みたいだけで、また奇跡は起きると信じたがり、母親にさらなる苦難を与えていたのかも知れない。
今さらながら、二回目の脳梗塞はあの一回目の脳挫傷の延長線にあったもので、一度も完治などしていなかったのかも知れないと悔悟し、自責の念に駆られている。
そう言えば、その脳挫傷のときも最初から、担当したERの医師から、「脳の7割に損傷が見られ、持って1、2週間。
ここ数日が山。そのうえ、胸骨も完全骨折していて回復の見込みがない」と、延命措置を施さないという旨のペーパーにサインさせられていた。
夫である父親も、兄もいたのに、母親の命のすべての責任をなぜかメイルは背負わされてしまっていた。
それなのに、その担当医をして「これはミラクル! まさにミラクル!」と言わせしめるような回復をし、母親の脳にあった不気味なカゲが消えたとき、母親に「胸が痛い! 胸が痛い!」と言い出し始めて、すっかり閉口させられてた。
それはそうである。
脳挫傷の治癒を最優先し、胸骨の骨折の処置は全く施していなかったのだから、至極当然。
それでも、あまりに痛がるので、一応担当医に質問してみた。
「胸骨の痛みを取るのにはどうしたらいいですか?」
「手術をして、骨折してしまった部分を固定するしかない」
「それって大手術なのですか?」
「それほどでもないが、全身麻酔でやるしかない手術になるけど?」
「えっ、全身麻酔なんてしたら、せっかく覚醒している母の頭に問題が生じないんですか?」
「それは何とも言えない。間違いなくそのリスクはある」
「だったら手術はボクの判断でやりません。母だって脳を覚醒させておくことを選ぶはずですから…」
メイルの独断で、母親は1年近く「胸が痛い」と言い続けることになったが、胸骨を骨折していたことは最後まで伝えなかった。
今思うと、母親はよくガマンしたと感心するだけだが…。
そのことがあるのか、老婦人が脊椎の骨折を治癒するために入院を決意したと聞いたとき、メイルにはその苦渋の決断の理由が手に取るようにわかって、ますます複雑な気持ちでいる。
自分の母親の介護度5の暮らしの5年半を再び克明に思い出し、「90歳を過ぎても、家族と普通に会話ができ、自分で食べたいものが食べたいように食べられるのに、何が不満なの?」と聞いてみたい気持ちもする。
が、それ以上に、「頭脳明晰なうえ、精神があれだけ鮮明だと、辛いかも?」と同情している。
メイルは、実際のフィジカルな痛みよりも、自分が面倒をかけている家族への配慮におけるメンタルな痛みで、彼女が入院を選んだに違いない。
とりわけ、彼女は24時間体制で下の世話をさせるハメになってしまっている自分の家族を、目いっぱい思いやって入院での他人の世話になる道を選択したに違いない。
メイルは、客観的な立場なので、イヤと言うほど彼女の気持ちがわかる。
冷静に見れば、彼女を介護している家族の一人一人に、かなりの疲労困憊の様子が滲み出てきているのも事実だからである。
「一人の人間として普通に一所懸命生きている限り、それは自然。そのムリが伝わらないように隠し続けることは極めて酷で、困難。いかに介護されるか? いかに介護するか? どちらも、一人の人間としてのの尊厳にかかわることなので、すべてを本人に委ねるしかない」と、少なくとも、メイルには理解できるのだが…。
メイルは、新たに介護を両方の立場で凝視しながら、映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」のトム・ハンクスとリムジン・ドライバーとの会話を思い出している。
NYのスタテン島の貧しい若者だったトム・ハンクスが、マンハッタンで一世一代のヤケクソのショッピングをすることになったときの絶妙な人間的会話…。
「Where would you like to go shopping(どこに行く)?」
「少しショッピングをしたい」
「どちらまでショピングに?」
「わかんない」
「オーライ」
「キミならどこに行く?」
「What for? What do you need(何のため? 何が欲しい)?」
「服」
「What kind? What's your taste?(どんな服)?」
「本当にわかんない」
「You hired me to drive the car, not to tell who you are(車のドライバーとして雇われたので、アンタが誰かと言うためにではない)」
「そんなこと頼んでない」
「You're hinting around about clothes.That's an important topic to me.Clothes make the man.I believe that.You say you want to buy clothes, but you don't know what kind.You leave it hanging in the air like I'll fillin the blanks .That's like asking me who you are, I don't know who you are.I don't want to know. It's taken me all my life to find out who I am, and I am tired now.(アンタは服を探しているとヒントをくれるばかり。私には重要なことなのに何だ。服は人を作るものと私は信じてるけど、アンタは服が欲しいと言ってるのにどんな服かはわからないというだけ。空いた括弧内に言葉を埋めるかのようで、よくわからないまま。それじゃ、アンタが何者かを問われているようなもので、私にやわからないし、知りたくもない。すでに自分の人生で自分は一体何?と問い続けてきたこともあって、すっかり疲れているんだから、どうでもいい)」
まるで、人間関係のあり方の基本が、そこにあるようだったとメイルは感動したのだが…。
それはそうだと思わないか?
生きていることの実感、そのリアリティの主張が服、ファッション。
いかに物質的に満足していようがしていまいが、それこそ、精神的に満足していようがしていまいが、着たいモノを着たいように着れるもの。
そのバイブレーション、インスピレーションのままに、最低限自分の存在を表現できるのが服、ファッション。
その意味では、老婦人も、メイルの母親同様、まだまだ身だしなみに細心の注意を払う姿勢を見せているから、痛みをガマンしようしていないから、目いっぱい生きようとしている意気があるとホッとできる。
だからこそ、メイルは、老婦人に、「母のように介護度5になったら、服すら自分で選べなくなってしまうのだから、そうならないだけ幸運」と感じて欲しいと願ってもいるのだが…。
どちらにしても、「介護される人間の歯痒さ、自己嫌悪、悔しさと、介護する人間の献身、一生懸命、モドカシサとのギャップは、まるで恋愛のようにピッタリ波長が合うことは困難であることだけは、恒久不変の真実なのかも」と、メイルは改めて確信している。





