介護人メイルの、悔悟、改悟、開悟、戒護。
 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、再び「ジャック・ニコルソン」のごとく。

 
メイルは、カラダを使った仕事をしたいととりつかれている。
突然の介護から始まった悔悟の日々が、自分の意識しないところでストレスを創り、それがいつのまにか自分のカラダを蝕んでしまっていると気づいたからである。
病は気から…。
気一つで、すべてを克服できると思い込んでしまっていた錯誤が、自分の肉体的衰退を一気に呼びこんでしまったのかも知れない。
この冬の1日の中で起きる激しい温度差に対応できなくなって、メイルは閉口している。
それが年が明けて、ますますひどくなった気がする。
朝、目を覚まし立ち上がる時、トイレに行く時、目が回るだけでなく、斜めに歩いているようで怖い。
メイルは、このままでは自分が母親のようになって、介護される立場になってしまう気がして、憂鬱になっている。
それなのに、本当にカラダを使う仕事が見つかって、メイルはますます怖気づいている。
そのために、徐々にカラダを鍛えておこうとして考えて、予備運動を計画した。
就業予定時間に合わせて、近くの公園にある階段を上がり降りしようと思いついたのである。
そうすることで、自分の健康不安をPCに向かい過ぎの眼精疲労、肩こりのせいに違いないと思い込もうと考えたからである。

そして、誰も歩いていない階段の下から、階段を見上げた途端、思い出してしまったのが「Something's gotta give(与えなければいけない何か…邦題:恋愛適齢期)」のジャック・ニコルソン。
メイルにとって、このジャック・ニコルソンは他人事ではなかった。
考え方、特に女性への接し方が自分と瓜二つで、吃驚仰天だった。
違うところがあるとすれば、ジャック・ニコルソンがスーパーリッチだということぐらいだった。
とりわけ、ヤンガーウーマンのエキスパートであること、一度も結婚したことがない「The escape artist(逃げの達人)」と呼ばれたバチュラー(独身貴族)であること、若い女性とガンバロウとして心臓発作に襲われること(メイルにとってはあまりにも遠い過去でしかないが…)は、デジャブのようでしかなかった。
なかでも、心臓発作を起こして病院にかつぎ込まれたとき、ジャック・ニコルソンが「リピトール(抗コレステロール薬)、それと白い粉薬」と言ったときは、目が飛び出てしまった。
メイルも、リピトールを服用するようになって、かなり経つ。
それだけではない。
メイルは、血液をサラサラにする薬、不整脈を抑える薬、抗高血圧薬、高尿酸血症の薬まで飲んでいるのである。
どうあれ、ようやく命を取り留めたばかりなのに、ジャック・ニコルソンが医者に尋ねる。
「What about Mr.Midnight here?(あれはどうなの?)」
「When can I be up and running in that department(いつからアップして使えるの?)」
この2つの言葉は、メイルが階段を歩き始めると、すぐに脳裏をウサギのように駆け巡り始める。
メイルは予想していた以上にすぐに息苦しくなってきて、絶望的になりかかる。
「ダメだこりゃ、ヤバい」、上を見ないようにして、一段一段ゆっくりゆっくり噛みしめるように歩く。
「本当にこれでちゃんと働けるのか?」
メイルはすぐに途方に暮れる。
すると、今度はそのとき医者がジャック・ニコルソンに言った言葉が、メイルの脳裏をワニのように這い始める。
「If you can climb a flight of stairs,you can have sex(もしひと繋がりの階段を上れたら、セックスはできる)」
メイルにとって、今、そんなことは夢のまた夢でしかないが、まだ心臓発作で死ぬわけにはいかない。
それどころか、介護されるような状態になるわけにはいかない。
自分の心臓を様子を手さぐりしながら、階段を上り切るしかない…。

それにしても、メイルは、このジャック・ニコルソンのすべてが気に入っている。
ヤンガーウーマンが持つスイートで複雑じゃない満足は、一瞬の若さに集約された魅力は、魔法のようにどんな男でも骨抜きする…ヤンガーウーマンは、travel light(旅行用ライト)のようなもの…という感覚には、同感。
それも自分の老いを意識するからこそというところも、納得。
ジャック・ニコルソンが独りヤンガーウーマンに電話をかけまくり、誰もが留守で、自嘲気味に「Everybody is out but an old Har. Old. Old(オイボレのハリー以外はみんなお出かけ、年寄り、オイボレ、じいさん)」と独り言を言うシーンは、頭がクラクラするほど共鳴させられる…。
映画は、その一人のヤンガーウーマンのキュートでラバブルな母親と今までの自分の殻を壊して恋に落ちるラブコメディーで、かなりオモシロい。
もっとも階段を元気に上がり切れないメイルには当分無関係なではあるが…。
それでも、階段をゆっくりゆっくり上がっているから、ついつい空想してしまう。
そして、ヤンガーウーマンから「Dad(お父さん)」とか「Granddad(お祖父さん)」と呼ばれたら、生きてはいけないなとすぐ覚める。
ともあれ、カラダの心配をしていると、自然に感傷的になって、逆にカラダによくない。
事実、心臓発作のほとんどの引き金は、ストレス。
メイルは、例え働きながら死んでも仕方がないと覚悟はしている。
そして、できたら一生懸命働いて、ジャック・ニコルソンのように一度、今までつき合ったヤンガーウーマンたちを直接訪ねることはイヤだけど、せめて遠くから眺めてから死にたいと願ってはいるのだが…。
 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「ジャック・ニコルソン」のごとく。

 
メイルは、散歩をするように心がけている。
間違いなく運動不足なことは歴然としているからである。
しかし、心のどこかで、のんびり散歩している場合じゃないだろという気持ちがあるので、早めに切り上げる。
性急になっているつもりはなかったが、世の中、考えている以上に甘くはなかった。
現状打破のためのプランAが、あえなく打ち砕かれたので、急いでプランBを実行しなければならない。
その気持ちが、いつのまにか歩調を早めさせ、仕事を早く完成させようとさせる。
こんなときほど、急がば回れだと百も承知しているはずなのに、人間いくつになっても成長の速度だけは速くはならないらしい。
メイルは、いやでも自嘲しつつも、ほぼ性癖になってしまっているすれ違う人たちの観察だけは怠らない。
一向に寒くならない師走、閑静な郊外の住宅街の裏道を、道を変えながら、少しでも坂のあるところを選んで、ゆらり、ゆらゆら…。
出遭う人のほとんどが、老人。
そして、一人ぽっち。
中には、杖をついた老人、片手と片足が動かない老人、手押し車を押す老人、小さな犬に引きずられるように歩いてる老人がいる。
考えてみれば、幼児を連れて散歩しているような若い女性が不思議なほど見つからない。
いつ何が起こるかわからない物騒な世の中を反映しているに違いない。
それでも、、メイルは、いつものように、母親を、父親を無理にでも引っ張り出して散歩させれば、もっともっと元気に長生きさせられたかもと後悔しながら、歩き続ける。
間違いなく2人とも、歩かなくなって見る見る衰え、そのことが母親の脳梗塞を誘発したに違いない。
後悔先に立たず…。
少なくとも、今、母親のように倒れるわけにはいかないと自分に必死に言い聞かせながら、懸命に足を動かし続ける。
ただし、足元の地面に視線を落とし、全神経を集中することを絶対忘れずに…。
そのために、メイルは真っ直ぐ歩くことがない。
もしかしたら、そのメイルの歩き方を見た人は、石蹴りをしながら歩いていると勘違いするかも知れない。
なぜそうなるのか、答えは簡単。
メイルは、死んでも犬の糞を踏みたくないからである。
これだけそこら中に、「犬の糞を自分で始末してください」、「犬の糞禁止」という立て札が、注意の看板があるのに、それを守らない飼い主がまだまだたくさんいるのである。
メイルは、偶然、そんなマナーのない飼い主を見つけると、容赦がない。
ある意味、危ない人になってしまう…。

メイルは、右に左に跳ねながら、大好きな映画「as good as it gets(恋愛小説家)」のジャック・ニコルソンを思い出し、さらに大胆に跳ね歩く。
ジャック・ニコルソンは、歩道のコンクリートの繋ぎ目を踏めなかった。
そのために、「Don't totch me(触るな)」と人とぶつかりながら、人混みを歩いていた。
そこだけは明らかにメイルとは違う。
メイルは、「失礼」、「ゴメンナサイ」と言いながら、人とぶつからないように必死で歩く。
雨の日など、自分の傘を大きく上に上げて避けるためにビショビショになる。
もしかすると、その違いが、62作も書き上げた売れっ子恋愛小説家のジャック・ニコルソンと売れない恋愛小説家のメイルの違いになる理由かも…。
とにかく、メイルは、このジャック・ニコルソンを初めて見た瞬間、自分を見るような錯覚を覚え苦笑いした。
レストランで、勝手に決めた自分の指定席を確保するために座っていたカップルを追い出す辛辣な皮肉トーク、持参するピクニックウエアのナイフとフォーク…。
メイルには到底できないが、いつか自分もそうなる気がして笑うしかなかった。
そして、やがて恋に落ちるヘレン・ハントと初めて親しく会話を交わすとき、子どもの病気の話を聞いて、いきなり「人間はみんな死ぬ。ボクもキミも、キミの息子も」と応え、「出て行け、二度とこの店にこないで」と言われたときには、戦慄した。
メイルは、まるで自分自身だと確信したからだった。
どうあれ、この映画は、紆余曲折を経て、やがてやっとの思いでヘレン・ハントと愛し合えるようになり、コンクリートの繋ぎ目を踏めるようになるというラブ・ストーリー。
蛇足ながら、このヘレン・ハントは出色…。
そして、ジャック・ニコルソンのヘレン・ハントへの告白の言葉が極めてクール。
強迫性神経症で精神分析医の治療を受けているジャック・ニコルソンが、またしても暴言を吐き、それに怒ったヘレン・ハントが言う「何か褒め言葉を言ってくれなきゃ許さない」。
するとジャック・ニコルソンが応える、「医者は薬を飲めば治ると言うが、薬が大嫌い。キミが訪ねてきて絶対にボクとは寝ないと言って帰った翌朝から、薬を飲み始めた。You make me wanna be better man(キミがボクをいい男になりたく思わせた)」…。
でも、メイルがこのジャック・ニコルソンを思い出す最大の理由は、この恋愛のことでも、隣人のゲイとの友情のことでもない。
実は、その隣人のゲイが飼っていたブス犬とのほのぼのとさせられる交流のことである。
メイルは、自分が飼っていた犬を散歩させるとき、ジャック・ニコルソンのように人の家の前、公共の場で、糞はもちろんオシッコさえさせなかった。
連れて歩いて「カワイイ犬ね」と出遭う人たちから言われるのはうれしくても、絶対自由にはさせなかった。
特に、ガールフレンドとデートのときは、ジャック・ニコルソン同様「You don't do anything(ジッとしてろ)!」と命令ばかりしていた。
そのせいか、いつのまにか父親としか散歩に行かなくなってしまった。
しまいには、メイルが作る食事さえ食べなくなってしまった。
そんなある日、父親が突然の腹痛で救急車で運ばれた。
あわててメイルが病院に駆けつけると、医者が「原因がわからない」と困り果てていた。
やむを得ず家に帰ると、愛犬の様子がオカシかった。
メイルが、獣医のところへ運んでいくと、犬が死に、父親が突然治った。
それは、ジャック・ニコルソンと逆だった。
そのことを思い出しながら、改めてメイルは、両親が年を取ったときこそ、犬を飼ってあげればよかったと後悔している。
そして、そうしなかったのは、愛犬の死というショックを与えたくなかったからだと言い訳している。
けれども、本当は、両親に介護が必要なことが起きるとか、両親が自分より先に死ぬとは考えたくなかったばかりか、
犬なんかとではなくきっと両親は自分と一緒に暮らしたかったのだと、メイルは、この期に及んで感じている。
どうあれ、初めてジャック・ニコルソンに世話をされることになった犬がエサを食べようとしない。その犬に向かってエサを食べなとばかりにジャック・ニコルソンが歌った「人生は前向きに生きよう。いつも前向きに生きよう」という言葉を思い浮かべ、メイルは明日も散歩しよう、できたらスキップでもしようと決意している。




 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「ブラッド・ピット」のごとく。

 
メイルは、毎日、人間として、どう生きるのか、何ができるのかと必死。
それこそ、涅槃、倦怠、絶望、希望、どんな色の蝶も、脳裏の中の野原を飛び交うこともない。
だからといって、残りの生きられる時間を考え、性急になるかと言うと、いっこうにそうならない。
かえって、どこまでも必死でありながら、ゆっくり、じっくり考えるようになっている。
時々、微笑みながら、最後まで美しくありたいと、模索し続けている。
メイルは、美しい生き方があると本気で信じている。
それは、理屈抜きに感じるもので、実際、それを体現している人間はいる…。

映画「A river runs through it(リバー・ランズ・スルー・イット:川はその中を流れる)」のブラッド・ピットもその一人。
メイルは、そのブラッド・ピットの何とも言えない悲哀に満ちた笑顔をいつも意識している。
到底ブラッド・ピットのようには見えなくても、その笑顔こそが人間の顔だと確信している。
特に、兄が本気で女性を愛していることを告げたときに、「川にはまだ他の魚がいるんだぜ」と応えたときの表情、兄が大学教授への着任を告げたときに、「誇りに思うよ」と応えたときの表情が、強烈な印象として残っている。
それ以上にこのブラッド・ピットを最近思い出すのには、理由がある。
なぜか、コタツの上にのせるデコラ板の夢を見るからである。
それには、真中に大きな割れ目が入っている。
メイルは、高校入学前に、人生でたった一度だけ本気で殴り合う兄弟ゲンカをした。
手加減する兄に対し、力の限り殴りかかったメイルは、たちまち兄を血だらけにした。
ブラッド・ピットと全く同じだった。
映画と同じように母親が止めに入ったが、同じように跳ね飛ばされた母親が言ったことは全く違った。
「私の足が滑ったのよ」とブラッド・ピットの母親が叫んだのに対し、メイルの母親は「メイル、オマエは実の兄を殺そうというの」とメイルを大声で罵った。
そして、母親は自分が吹き飛ばされて割れたコタツのデコラ板を、絶対に捨てようとしなかった。
そのせいなのか、ブラッド・ピット兄弟は、どちらが強いか言い合い、疑問に答えが出ないときは若者は蒸し返すことがないという原則に乗っ取って仲直りしたが、メイルは両親の介護で兄と本格的なケンカになり、兄を失った。
実際、メイルの兄も、ブラッド・ピットの兄同様、社会的経済的成功者。
それに反して、両親を「亀田病院」に入居させたいと懇願したメイルは、ブラッド・ピットのようにラスベガス(?)の「ロロ」に通って、社会的経済的敗北者。
人間は誰もが基本的に迷える子羊…。
神を知らない貧しい者は不幸で、神を知る貧しい者はこの世のプリンス、キングと信じることのできるブラッド・ピットの兄と父親のような人間にとっては、ブラッド・ピットのような生き方はジェラシーの対象でしかないのかも…。
けれども、「川は5億年前から流れ、雨が地を固めて作った岩を濡らし続けている。その前から岩の下には神の言葉がある。川の流れに耳を澄ませば、その神の声が聞こえそうになる…草原の輝きはもはや戻らず、花の命は失われても、後に残ったものに力を見出そう。本能的な思いやりの中に、苦しみの末の和らぎの中に、永遠なる信仰の中に、生きるヨスガとなる人の心、そのやさしさとその喜びに感謝しよう。人目に立たぬ一輪の花も、涙にあまる深い想いを我にもたらす…」と、ブラッド・ピットの兄や父親のように生きることができたら、それはそれで幸せだとも思えるが…。
どうあれ、ブラッド・ピットのような存在は、完成された美しい芸術品のようなもので、この世を超えた空間に属していて、人の世は芸術ではないのだから永遠の命を持たないものでしかなかった。
メイルは、そんなブラッド・ピットのように、さりげなく人を思いやり、神のリズムを超越し、自分のリズムで大自然の何かを感じながら生きたいと願っている。

メイルは、一つだけそんなブラッド・ピットに羨望していることがある。
両親より早く死ねなかったこと。
初めてこの映画を観たときには、あれだけブラッド・ピットのように両親より先に死んで、母親を黙らせ、父親に「他にわかっていることは?」と兄に尋ねさせ、「手の骨がほとんど壊されていた」と兄に答えさせ、父親に「どっちの手?」と言わせてやりたいと思っていたのに…。
そして、「愛する者が苦しんでいるのを見て、神に問う。愛する者を助けたいのです、何をすれば? 本当に助けとなることは難しい。自分は何を差し出すべきか、あるいは差し出しても相手が拒否してしまう。身近にいながら腕の間をすり抜けてしまう。できるのは愛すること、人は理屈を離れ、心から人を愛することができる」と父親と兄にわからせてやりたかったのに…。
そのことは今なお悔悟だが、今になっては受け入れて生きるしか道はない。
メイルの両親もすでに亡くなり、自分はまだ生きているからである。
だからこそ、今まで以上に少しでも美しく生きたい、短くても心美しくありたい、いつまでもブラッド・ピットのようであって、not funny(オモシロくない)と言われるブラッド・ピットの兄や父親のようにはなりたくないと欲している。
それだから、モンタナの大自然の中で、フライ・フィッシングをやりながら、「谷間にタソガレが忍び寄ると、すべてが消え、あるのは私の魂と思い出、そして川のセセラギと4拍子のリズム、魚が川面をよぎる期待。やがて、すべては一つに溶け合い、その中を川が流れる…その岩の下にある言葉のうち、いくつかは岩自身の言葉だ」となどとブラッド・ピットの兄のように絶対に感じたくない。







 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「アラン・ドロン」のごとく。

 
メイルは、人生で最大の岐路に立たされている。
両親が立て続けに他界し一年、ようやく自分の人生を顧みる余裕ができた途端、どこにも自分の人生の原型が見つからない。
間違いなく親孝行してこなかったという自責の念、悔悟が大き過ぎたせいかも知れない。
ゴム風船を夢中に膨らませ続けるように、やみくもに力を入れた介護の無理が、経済的破綻を招くことを一度も考えなかったツケだった。
パーンと風船が破裂した後には、ゴムの破片が無残に残るだけだった。
それでもなお、メイルは絶望も焦燥もしていない。
誰に何を言われても、経済的理由で介護を放棄するくないなら、人間を辞めるべきと断言できる。
生きる者はやれることをすべてをやるのが人間であることに、間違いはない。
その結果、否応なしに観念する必要に迫られてもである。
もともと北極の氷のように溶け始めていた自分の微かな財は、二人同時介護という超現実によって、これまた北極海の氷のようにほぼ溶け切ろうとしている…。
メイルは、生まれて初めて、極端な耐乏生活をせざるを得ない状況に追い込まれている。
だからと言って、世の中に大勢いるヒトたちのように、安直に自暴自棄になるわけにもいかない。
陰になり日向になり自分を支え続けてくれた人たちへの義理を、感謝を忘れるわけにはいかないからである。
「そのプライドを捨てたら人間じゃない。その報恩を忘れたら死ぬ価値も生きる価値もない」
メイルはますますそう信じている。
と同時に、介護に直面して初めて、世の中で言われている通り、「人間は独りで生きているのではない」と改めて痛感させられている。
しかしながら、現実の厳しさもまた同様。
愛だけで生きていける世界など、どこにもない。
あれほどファッションにプライドを持っていたメイルが、今は着た切りスズメで、無精ヒゲを生やし、タバコを吸い続けている。
食事を減らしてまで、タバコを買い続けている。
しかも、タバコをどんどんキツイものに戻し、昔のようについに「ゴロワーズ」のジタンにしている。
そして、壊れたバイクのマフラーのようにモクモクと煙を吹き出しながら、アラン・ドロンをいつも思い出している…。

映画「高校教師(Le Professeur)」のアラン・ドロンのタバコの吸い方は、メチャクチャ印象的。
まだ20代そこそこの大学生だったメイルが、その映画で影響を受けたのが、「ゴロワーズ」とファッションだった。
ラウンドのセーターにウールのコート、クシャクシャにして持って歩くのが両切りの「ゴロワーズ」が、すぐにメイルのお気に入り、定番になった。
ところが、メイルの母親がその強烈なクセのある臭いを嫌がった。
自分だってタバコを吸っていたくせに、「そんなに臭いタバコを何で吸うのよ…カラダに悪いに決まっているわよ」と口うるさかった。
かつて同じ両切りの「缶ピース」を吸っていて、健康のために禁煙したメイルの父親までが、「そんな臭いタバコ止めた方がいいぞ」と言うほどだった。
今考えると、戦争でイヤな気分をたっぷり味わった両親にとって、独特の舶来の臭いが生理的に嫌いだったのかも知れない…。
それにしても、アラン・ドロンの喫煙は凄まじかった。
今、世界中で肩身が狭いタバコ会社が、その当時、涙を流して大喜びしたに違いない。
薄汚れた格好のうらぶれた雰囲気の中年高校臨時教師、アラン・ドロンは高校に行き教壇に座るやいなや、生徒を放ったらかしにしたまま、タバコの吸い放題…。
その様子はアンニュイどころか、デカダンの極み、まさにヤケクソ。
そこに、メイルは心から共感を覚えていた。
映画そのものは、イタリア語の原題「La prima notte di quiete」が示す通り、 「安楽の最初の夜」、「死後」が奏でる、アドリア海に面した北イタリアの小さな田舎町リミニという海辺の町を舞台に描かれた哀切極まりない悲劇の愛のラブストリー…。
過去に従姉妹の少女を16歳で亡くし、別の男から略奪した妻との愛に冷め、賭博場に通い詰めるアラン・ドロンが、複雑な家庭に育った高校生美少女と激しく燃える恋に落ちる。
その美少女も高校生とは思えない衝撃的な生き方をしていた…。

メイルには、ちょうどそのころ、アラン・ドロンが愛した少女のようなガールフレンドがいた。
しかも、メイルの彼女も高校生だった。
そのうえ、そのガールフレンドには、映画と同じに「もう二度とウチの娘に会わないでちょうだい」とメイルに狂ったように叫ぶエキセントリックな母親がいた。
母子家庭であるがゆえに、彼女の母親には、ヒッピーのような大学暮らしをしていたメイルなど眼中になく、まさに映画同様リッチな意中の娘の相手がいたからだった。
そのような打算的な女性の言動には、一切の躊躇いも同情もなかった。
彼女の母親は、何とメイルの母親に直談判した。
「お宅のバカ息子、いい加減に諦めさせてください。ウチの娘には、もっとちゃんとした彼氏がいるんですから…」。
これには、今までガールフレンドに関して何一つ言ったことがなかった、メイルの母親がキレた。
「メイル。彼女自身がいい娘なのは、私も知っている。遊びにくれば、ちゃんと受け入れてあげている。
それに、彼女のオマエへの気持ちもわかっている。でも、もうそういう話じゃないわ。彼女とはつきあうのだけは止めなさい」…。
黙ったまま臭いタバコを吸い続けていたメイルが家を出たのは、翌日だった。
「愛してる」と一方的に言ってきたのは彼女の方だったから、納得いかなかった。
そして、「生活費を作って送金する」と彼女に誓って、メイルが向かったのは、海辺の有名な温泉街だった。
その間に、彼女は母親の命令で、まだ高校2年生だったのに、母親の意中の男と結婚してしまった。
それを知らされたメイルは、何もかもがアラン・ドロンだった。
メイルの青春の1ページそのものだった。
以来、メイルは、アラン・ドロンが愛した少女の母親のようなタイプの女性、アラン・ドロンの妻のような女性を選んで、つき合った。
アラン・ドロンになったつもりで、自己陶酔していただけだったのかも知れないが、どこかで復讐している気持ちもあった気がする…。

どちらにしても、タバコの吸い方だけはそのアラン・ドロンの影響を間違いなく受けた。
これだけの禁煙ブームなのに、これだけタバコ代にも窮しているのに、今なお、メイルが酷いチェーンスモーカーであることに変わりはない。
心のどこかで肺ガンを心配しながら、「アラン・ドロンのように若い女性と恋に落ちることなど一生ないのだろうな」と苦笑している。
けれども、すべての夢を棄てたわけではない。
生きている間に、フェデリコ・フェリーニの故郷であるこの映画の舞台、アドリア海に面した北イタリアの小さな田舎町リミニに何が何でも行ってみたいと考えている。
なぜなら、メイルが家出して住み込んだ海辺の温泉街とあまりにも違う風景だったから…。
だからこそ、気になるセキに悩みながら、メイルは「母さん、父さん、それまではまだ話に行きたくないよ」と小春日和の空を見て思っている。
「さあ、そのためにも早く義理を返さなきゃ…」
メイルは、強く決意してもいるのだが…。








































 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「アンディ・ガルシア」のごとく。

 
メイルは、久し振りに自転車に乗った。
30年振り? いや40年振りか? すぐに思い出せないことに、ブルーになっている。
運動不足の解消にもなるからと、なかば強制的に乗せられている。
それが、父親と同じ歳のお世話になっている老婦人のアドバイスだから、従わざるを得ない。
しかも、彼女自身が足を悪くし自由にならなくなってきていて、足を動かすことの大切さをイヤというほど痛感しながら、「運動しなければ、ダメよ。カラダが弱るだけでなく、心まで弱くなってしまうから」と切実に言うから、何も反論できない。
それにしても、自転車を漕ぐのは、辛い。
それ以上に、恐い、半端じゃなく恐い。
狭い住宅街の道路を、息を切らしてサドルを左右に振らして、懸命に進んでいるメイルのすぐ横を、立て続けざまに車が何台もかすめるように追い越してゆく。
そして、誰一人としてスピードを緩めようとしてくれない…。
ついこの前まで、メイルは車の中から、自転車で交通ルールを無視し、傍若無人に無謀運転するヒトたちに、「自転車もクルマ。ちゃんと交通ルールを守れ」と心の中で叫んでいたことを思い出し、複雑だった。
そして、時々、「ここは日本。中国じゃない」と、実際に声を上げていたことまで思い出し、また父親のことを思い浮かべた…。

母親が2度目の入院した直後、メイルは父親に詰問しなければならない羽目になった。
父親の食事の援助をしてくれていた介護士から、苦情の電話を受けたからだった。
彼女の話によると、「父親が勝手に自転車で買物に行ってしまうので、規則上困る」ということだった。
仕方なく、メイルは父親と面と向かって話すことになった。
母親のことでショックなことは百も承知していたので、できるだけ小言を言わず、目をつぶろうと決めていたので、あえて普段余計なことは話さないようにしていた。
以前、偶然に父親の自転車の乗り方を目撃したことがあったので、ことさらだった。
例外でなく、メイルの父親の自転車運転も、年老いた老人男のメチャクチャ乱暴なものだった。
道路の右側と左側を後方を見ることなく行ったりきたり、車道に出たり、信号があるのに手前で道路を突然横断したり、それはどこから見ても、ロシアンルーレットでしかなかった。
「父さん、また自転車乗ってるんだって?」
「乗ってないよ」
「ほんと? ウソついたらだめだよ」
「ウソなんてついてないよ」
「それならいいけど…父さんは介護度2の認定だから、買物介助になっていて、独りで買物ができないことになってるんだよ」
「わかってるよ。だから、買物になんか行ってないよ」
「わかった。わかった…ところで、居間に置いてあるテッシューの箱の束はどうしたの?」
「スーパーで買ってきたんだよ。だって、その辺で買うより120円も安いんだよ。オマエはわかんないんだろうけど、年金暮らしは大変なんだよ。少しでも節約しなきゃ。それに、テッシューはスーパーで買うように母さんから、言われているから…」
メイルは、その言葉で、それ以上言うのを止めた。
介護度5の母親はもう二度と父親に、「スーパーに買物に行ってきて、お父さん」とは言えるわけがなかったからだった。
もしかしたら、父親は買物に行く感覚などなく、母親との暮らしの継続をそうやって夢見ていただけだったのかも知れない。

メイルは、映画「NIght falls on Manhattan(マンハッタンに黒い闇が広がる:邦題、NY検事局)」のアンディ・ガルシアの気分だった。
NYニューヨーク市警の警官の子で、聖職者を目指して聖ジョーンズ大学を卒業したのに、父親と同じ市警の警官になり、苦労して検事補になる。
途端に、我が国がいくら後を追っても追いつけそうもないUSAのニューヨークの麻薬禍、そして、その金にまつわる根深い市警警察官たちの汚職、自分の父親が麻薬密売の元締めを逮捕しようとして撃たれ瀕死の重傷を負ったことから、そのどす黒い警官汚職事件に巻き込まれる。
そして、「knowing street(庶民を知っている)」ということで、その事件の担当になる。
アンディ・ガルシアは入院している父親を訪ね、その報告をする。
そのとき、「『Need it(さあ、やれ)』という自分にだけ言っていた父親の口癖が、いい言葉だ」と語りかける。
メイルと父親の間には、そんなものは何もなかった。
アンディ・ガルシアの父親と違って、キャッチボールのときも、試験のときも、黙って促すだけだった…。
そのうち、汚職嫌疑が父親の相棒にかかる。
正義感の強いアンディ・ガルシアは、父親を疑い、父親を母親の墓で詰問する。
父親は自分の息子に疑われるショックを隠せないまま、死んだ母親に無実を誓わせられる。
やがて、父親の相棒から司法取引を相談されるが、アンディ・ガルシアは、父親の目の前で、けんもほろろに断るだけでなく、その相棒を糾弾する。
そんなアンディ・ガルシアを見て、父親は告白する。
「俺は相棒がお金を受けとっていたことは本当に知らなかった。俺は受け取っていなかったが、安月給の警官にとって、全員でたったの60万ドルの賄賂だ、誰が断れる。世の中には、医者、弁護士、ゼネコンのヤツらが、他人を犠牲にして、大儲けしているじゃないか…。オレも、俺も法を犯した。期限が失効していた逮捕状を、どうしても自分の手で捕まえたくて、偽造した。37年間の警察官暮らしの人生で、最大の捕物だと思ったからだ。でも、それでお前に迷惑をかけるわけにいかない。自首する。とっくに、首になっていい歳だ。お前がそれを黙っていられのないなら、仕方ない。もうこんな世の中についていけない」…。
アンディ・ガルシアが、「そんな問題じゃない。これがわかったら、あのクソッタレは放免されてしまうんだ」と、父親の手を握ろうとすると、カラダをビクンとさせて拒む。
このシーンを見た瞬間、メイルは全身がビクビクンと震えた。
父親に向かって、メイルが怒ってものを言うと、父親が同じ反応をよくしていたからである。
「ダメだよ、父さん。母さんが悲しむよ…。もう自分も死にたいとか、こんな風に母さんがなっちゃって、もうどうしていいかわからないとか、そんな投げやりなことを言っちゃダメ」と言って、「ネエ、父さん」と肩に触れようとすると、そっと避けるのだった。
そのたびに、メイルは「いけない。いけない。本気で真っ向から言っちゃいけない」と内心反省していたのだが、どうしてもすぐ言ってしまうのだ…。
それにしても、そんなアンディ・ガルシアの父親の対応に、メイルは自分の父親をイヤといほど投影させられ、苦笑するしかなかった。

この映画で、メイルが目からウロコの気持ちにさせられたところが、2回ある。どちらも敵対しているはずの弁護士とのサウナ会談。
1回目のサウナ会談では、アンディ・ガルシアが「何であんなクズの弁護を引き受けたの?」と質問したときの弁護士の解答。
「本当の目的は、麻薬社会の撲滅。そのためにも、汚職警官を根絶したい。私だって、あんな若い麻薬密売人のクズには、ハラワタが煮えくり返る。時々、あんな世代の連中はみんな見捨てて、永久に刑務所に放り込んでやりたい。15歳の娘が麻薬で死んで、人生は変わった。君が地方検事になったら、汚職警官の追及をしてくれ」
「わかった。for ever(徹底的にやる」
「for ever? 君はロマンチストだな」…。
メイルはこのやりとりを見て、我が国の社会派なる情けなくてみっともない弁護士にこの映画を見せたいと思って、溜息していた。
2回目のサウナ会談では、父親をかばうために、それ以上に麻薬密売人を放免させないために、自分の正義を裏切ったアンディ・ガルシアが「もう地方検事を辞める」と言ったときの弁護士の解答。
「物事は思うほど単純じゃない。私はperfect(パーフェクト)じゃない。欠点だらけだ。君はパーフェクトなのか?」…。
メイルは、アンディ・ガルシア以上にパーフェクトじゃないのに、なぜ自分のこれだけ年を取った父親をパーフェクトにさせようとしてしまったのか、残酷な自分を深く反省している。
アンディ・ガルシアでさえ、白黒はっきりしていることはともかく、グレーな部分でどう物事に向き合うかが大切と気づいているのに、どうして死ぬまでシャキッとさせようとしてしまったのか、自転車に乗りながら、今、再び後悔している。
そして、もしかして父親は自転車に乗って轢かれて死んでしまいたかったのかもと、初めて感じている。





 
 
 
 
 
 
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Author:介護人 メイル・GIVEソン

介護なんて、「する側」も「される側」も現実であってほしくないと毎日願って過ごしている。
ある日突然、前ぶれもなく目の前にそれが現れた…。

東仙坊の、介護用ハンドルネーム「メイル・GIVEソン」が、好きな映画と対照して、お届けする介護ブログ。
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