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介護人メイルの、悔悟、改悟、開悟、戒護。
 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「ブラッド・ピット」のごとく。

 
メイルは、毎日、人間として、どう生きるのか、何ができるのかと必死。
それこそ、涅槃、倦怠、絶望、希望、どんな色の蝶も、脳裏の中の野原を飛び交うこともない。
だからといって、残りの生きられる時間を考え、性急になるかと言うと、いっこうにそうならない。
かえって、どこまでも必死でありながら、ゆっくり、じっくり考えるようになっている。
時々、微笑みながら、最後まで美しくありたいと、模索し続けている。
メイルは、美しい生き方があると本気で信じている。
それは、理屈抜きに感じるもので、実際、それを体現している人間はいる…。

映画「A river runs through it(リバー・ランズ・スルー・イット:川はその中を流れる)」のブラッド・ピットもその一人。
メイルは、そのブラッド・ピットの何とも言えない悲哀に満ちた笑顔をいつも意識している。
到底ブラッド・ピットのようには見えなくても、その笑顔こそが人間の顔だと確信している。
特に、兄が本気で女性を愛していることを告げたときに、「川にはまだ他の魚がいるんだぜ」と応えたときの表情、兄が大学教授への着任を告げたときに、「誇りに思うよ」と応えたときの表情が、強烈な印象として残っている。
それ以上にこのブラッド・ピットを最近思い出すのには、理由がある。
なぜか、コタツの上にのせるデコラ板の夢を見るからである。
それには、真中に大きな割れ目が入っている。
メイルは、高校入学前に、人生でたった一度だけ本気で殴り合う兄弟ゲンカをした。
手加減する兄に対し、力の限り殴りかかったメイルは、たちまち兄を血だらけにした。
ブラッド・ピットと全く同じだった。
映画と同じように母親が止めに入ったが、同じように跳ね飛ばされた母親が言ったことは全く違った。
「私の足が滑ったのよ」とブラッド・ピットの母親が叫んだのに対し、メイルの母親は「メイル、オマエは実の兄を殺そうというの」とメイルを大声で罵った。
そして、母親は自分が吹き飛ばされて割れたコタツのデコラ板を、絶対に捨てようとしなかった。
そのせいなのか、ブラッド・ピット兄弟は、どちらが強いか言い合い、疑問に答えが出ないときは若者は蒸し返すことがないという原則に乗っ取って仲直りしたが、メイルは両親の介護で兄と本格的なケンカになり、兄を失った。
実際、メイルの兄も、ブラッド・ピットの兄同様、社会的経済的成功者。
それに反して、両親を「亀田病院」に入居させたいと懇願したメイルは、ブラッド・ピットのようにラスベガス(?)の「ロロ」に通って、社会的経済的敗北者。
人間は誰もが基本的に迷える子羊…。
神を知らない貧しい者は不幸で、神を知る貧しい者はこの世のプリンス、キングと信じることのできるブラッド・ピットの兄と父親のような人間にとっては、ブラッド・ピットのような生き方はジェラシーの対象でしかないのかも…。
けれども、「川は5億年前から流れ、雨が地を固めて作った岩を濡らし続けている。その前から岩の下には神の言葉がある。川の流れに耳を澄ませば、その神の声が聞こえそうになる…草原の輝きはもはや戻らず、花の命は失われても、後に残ったものに力を見出そう。本能的な思いやりの中に、苦しみの末の和らぎの中に、永遠なる信仰の中に、生きるヨスガとなる人の心、そのやさしさとその喜びに感謝しよう。人目に立たぬ一輪の花も、涙にあまる深い想いを我にもたらす…」と、ブラッド・ピットの兄や父親のように生きることができたら、それはそれで幸せだとも思えるが…。
どうあれ、ブラッド・ピットのような存在は、完成された美しい芸術品のようなもので、この世を超えた空間に属していて、人の世は芸術ではないのだから永遠の命を持たないものでしかなかった。
メイルは、そんなブラッド・ピットのように、さりげなく人を思いやり、神のリズムを超越し、自分のリズムで大自然の何かを感じながら生きたいと願っている。

メイルは、一つだけそんなブラッド・ピットに羨望していることがある。
両親より早く死ねなかったこと。
初めてこの映画を観たときには、あれだけブラッド・ピットのように両親より先に死んで、母親を黙らせ、父親に「他にわかっていることは?」と兄に尋ねさせ、「手の骨がほとんど壊されていた」と兄に答えさせ、父親に「どっちの手?」と言わせてやりたいと思っていたのに…。
そして、「愛する者が苦しんでいるのを見て、神に問う。愛する者を助けたいのです、何をすれば? 本当に助けとなることは難しい。自分は何を差し出すべきか、あるいは差し出しても相手が拒否してしまう。身近にいながら腕の間をすり抜けてしまう。できるのは愛すること、人は理屈を離れ、心から人を愛することができる」と父親と兄にわからせてやりたかったのに…。
そのことは今なお悔悟だが、今になっては受け入れて生きるしか道はない。
メイルの両親もすでに亡くなり、自分はまだ生きているからである。
だからこそ、今まで以上に少しでも美しく生きたい、短くても心美しくありたい、いつまでもブラッド・ピットのようであって、not funny(オモシロくない)と言われるブラッド・ピットの兄や父親のようにはなりたくないと欲している。
それだから、モンタナの大自然の中で、フライ・フィッシングをやりながら、「谷間にタソガレが忍び寄ると、すべてが消え、あるのは私の魂と思い出、そして川のセセラギと4拍子のリズム、魚が川面をよぎる期待。やがて、すべては一つに溶け合い、その中を川が流れる…その岩の下にある言葉のうち、いくつかは岩自身の言葉だ」となどとブラッド・ピットの兄のように絶対に感じたくない。







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プロフィール
 

介護人 メイル・GIVEソン

Author:介護人 メイル・GIVEソン

介護なんて、「する側」も「される側」も現実であってほしくないと毎日願って過ごしている。
ある日突然、前ぶれもなく目の前にそれが現れた…。

東仙坊の、介護用ハンドルネーム「メイル・GIVEソン」が、好きな映画と対照して、お届けする介護ブログ。
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