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介護人メイルの、悔悟、改悟、開悟、戒護。
 
 
 
 
 
 

介護を超えて、悔悟のままに、「トム・ハンクス」のごとく-3

 
メイルは、お世話になっている老婦人が、脊椎を骨折していたことが判明して、複雑な気持ちになっている。
人間いくつになっても、痛いのをガマンできるわけもない。
それで、メイルは、唐突と思い出したことがある。
実は、メイルの母親も脳梗塞で介護度5になってしまう前に、階段で転んで脳挫傷を負い緊急入院したことがあった。
けれども、それが瞬く間に元通りになったように見えたので、すっかりそのことを忘れてしまっていた。
「やった! 奇跡が起きたんだ! これで、母親は二度とこんな目に遭わなくてすむし、自分もこれで介護の大役を終了だ! 沖の干潟遥かだったのに、磯より潮が一度満ちた以上、これで二度と満ちない」と勝手に安穏としていた。
人間とは摩訶不思議なもので、逃れられない大事に直面すると、逃れられた大事のことはついつい眼中になくなってしまうものらしい…。
メイルは、望むことが到底ムリなのに、そう思い込みたいだけで、また奇跡は起きると信じたがり、母親にさらなる苦難を与えていたのかも知れない。
今さらながら、二回目の脳梗塞はあの一回目の脳挫傷の延長線にあったもので、一度も完治などしていなかったのかも知れないと悔悟し、自責の念に駆られている。
そう言えば、その脳挫傷のときも最初から、担当したERの医師から、「脳の7割に損傷が見られ、持って1、2週間。
ここ数日が山。そのうえ、胸骨も完全骨折していて回復の見込みがない」と、延命措置を施さないという旨のペーパーにサインさせられていた。
夫である父親も、兄もいたのに、母親の命のすべての責任をなぜかメイルは背負わされてしまっていた。
それなのに、その担当医をして「これはミラクル! まさにミラクル!」と言わせしめるような回復をし、母親の脳にあった不気味なカゲが消えたとき、母親に「胸が痛い! 胸が痛い!」と言い出し始めて、すっかり閉口させられてた。
それはそうである。
脳挫傷の治癒を最優先し、胸骨の骨折の処置は全く施していなかったのだから、至極当然。
それでも、あまりに痛がるので、一応担当医に質問してみた。
「胸骨の痛みを取るのにはどうしたらいいですか?」
「手術をして、骨折してしまった部分を固定するしかない」
「それって大手術なのですか?」
「それほどでもないが、全身麻酔でやるしかない手術になるけど?」
「えっ、全身麻酔なんてしたら、せっかく覚醒している母の頭に問題が生じないんですか?」
「それは何とも言えない。間違いなくそのリスクはある」
「だったら手術はボクの判断でやりません。母だって脳を覚醒させておくことを選ぶはずですから…」
メイルの独断で、母親は1年近く「胸が痛い」と言い続けることになったが、胸骨を骨折していたことは最後まで伝えなかった。
今思うと、母親はよくガマンしたと感心するだけだが…。
そのことがあるのか、老婦人が脊椎の骨折を治癒するために入院を決意したと聞いたとき、メイルにはその苦渋の決断の理由が手に取るようにわかって、ますます複雑な気持ちでいる。
自分の母親の介護度5の暮らしの5年半を再び克明に思い出し、「90歳を過ぎても、家族と普通に会話ができ、自分で食べたいものが食べたいように食べられるのに、何が不満なの?」と聞いてみたい気持ちもする。
が、それ以上に、「頭脳明晰なうえ、精神があれだけ鮮明だと、辛いかも?」と同情している。
メイルは、実際のフィジカルな痛みよりも、自分が面倒をかけている家族への配慮におけるメンタルな痛みで、彼女が入院を選んだに違いない。
とりわけ、彼女は24時間体制で下の世話をさせるハメになってしまっている自分の家族を、目いっぱい思いやって入院での他人の世話になる道を選択したに違いない。
メイルは、客観的な立場なので、イヤと言うほど彼女の気持ちがわかる。
冷静に見れば、彼女を介護している家族の一人一人に、かなりの疲労困憊の様子が滲み出てきているのも事実だからである。
「一人の人間として普通に一所懸命生きている限り、それは自然。そのムリが伝わらないように隠し続けることは極めて酷で、困難。いかに介護されるか? いかに介護するか? どちらも、一人の人間としてのの尊厳にかかわることなので、すべてを本人に委ねるしかない」と、少なくとも、メイルには理解できるのだが…。

メイルは、新たに介護を両方の立場で凝視しながら、映画「Joe wersus the Volcano(ジョー、満月の島に行く)」のトム・ハンクスとリムジン・ドライバーとの会話を思い出している。
NYのスタテン島の貧しい若者だったトム・ハンクスが、マンハッタンで一世一代のヤケクソのショッピングをすることになったときの絶妙な人間的会話…。
「Where would you like to go shopping(どこに行く)?」
「少しショッピングをしたい」
「どちらまでショピングに?」
「わかんない」
「オーライ」
「キミならどこに行く?」
「What for? What do you need(何のため? 何が欲しい)?」
「服」
「What kind? What's your taste?(どんな服)?」
「本当にわかんない」
「You hired me to drive the car, not to tell who you are(車のドライバーとして雇われたので、アンタが誰かと言うためにではない)」
「そんなこと頼んでない」
「You're hinting around about clothes.That's an important topic to me.Clothes make the man.I believe that.You say you want to buy clothes, but you don't know what kind.You leave it hanging in the air like I'll fillin the blanks .That's like asking me who you are, I don't know who you are.I don't want to know. It's taken me all my life to find out who I am, and I am tired now.(アンタは服を探しているとヒントをくれるばかり。私には重要なことなのに何だ。服は人を作るものと私は信じてるけど、アンタは服が欲しいと言ってるのにどんな服かはわからないというだけ。空いた括弧内に言葉を埋めるかのようで、よくわからないまま。それじゃ、アンタが何者かを問われているようなもので、私にやわからないし、知りたくもない。すでに自分の人生で自分は一体何?と問い続けてきたこともあって、すっかり疲れているんだから、どうでもいい)」
まるで、人間関係のあり方の基本が、そこにあるようだったとメイルは感動したのだが…。
それはそうだと思わないか?
生きていることの実感、そのリアリティの主張が服、ファッション。
いかに物質的に満足していようがしていまいが、それこそ、精神的に満足していようがしていまいが、着たいモノを着たいように着れるもの。
そのバイブレーション、インスピレーションのままに、最低限自分の存在を表現できるのが服、ファッション。
その意味では、老婦人も、メイルの母親同様、まだまだ身だしなみに細心の注意を払う姿勢を見せているから、痛みをガマンしようしていないから、目いっぱい生きようとしている意気があるとホッとできる。
だからこそ、メイルは、老婦人に、「母のように介護度5になったら、服すら自分で選べなくなってしまうのだから、そうならないだけ幸運」と感じて欲しいと願ってもいるのだが…。
どちらにしても、「介護される人間の歯痒さ、自己嫌悪、悔しさと、介護する人間の献身、一生懸命、モドカシサとのギャップは、まるで恋愛のようにピッタリ波長が合うことは困難であることだけは、恒久不変の真実なのかも」と、メイルは改めて確信している。





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プロフィール
 

介護人 メイル・GIVEソン

Author:介護人 メイル・GIVEソン

介護なんて、「する側」も「される側」も現実であってほしくないと毎日願って過ごしている。
ある日突然、前ぶれもなく目の前にそれが現れた…。

東仙坊の、介護用ハンドルネーム「メイル・GIVEソン」が、好きな映画と対照して、お届けする介護ブログ。
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